内乱の開幕

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後醍醐天皇が吉野に朝廷をひらき、各地の武士に決起をよびかけるとともに、東条に本拠をすえた南朝軍は、さっそく攻勢にでた。岸和田治氏の軍忠状は、延元二年(建武四、一三三七)三月までの軍忠を記しているが(中世三六)、河内国の武士高木(たかぎ)八郎兵衛尉遠盛(とおもり)も南朝軍として活躍し、延元二年(建武四)七月から翌三年九月にいたる活躍を記した軍忠状をのこしている(中世三七)。なお高木氏の本拠ははっきりしないが、中世河内には丹北郡(現松原市)と古市郡(現羽曳野市)の二カ所に高木荘がある。高木氏の本拠はそのいずれかであろう。

 いっぽう足利尊氏は、建武三年(延元元、一三三六)一二月一九日までに、足利一族の細川顕氏(ほそかわあきうじ)を河内守護に任命していた(佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』上)。建武新政下では楠木正成が河内守護であったことは前述したが、足利尊氏が事実上幕府を再興すると、建武新政下の守護を無視して、さっそくに新守護を任命したのである(もっとも河内では守護楠木正成は討死していたが)。新守護細川顕氏は建武三年一二月に天王寺に下向し、ついで河内の南朝軍攻撃を開始した。河内にも当初から足利方の武士がいたが、岸和田治氏とは反対に、和泉国にも細川顕氏に従い、河内に攻め入った武士がいた。鎌倉時代いらい鳳(おおとり)荘(現堺市)の地頭である田代(たしろ)氏はその一人で、田代顕綱(あきつな)・基綱(もとつな)(了賢(りょうけん))が、総大将細川顕氏の証判をうけたこの時期の軍忠状をのこしている(中世三七・三八)。敵味方それぞれの軍忠状がのこされているわけであるが、以下これらの軍忠状を史料に、南河内を中心とする南北朝内乱の開幕の様相をみることにしよう。

 さて東条に立て籠った岸和田治氏ら南朝軍は、延元二年(建武四)正月一日、まず河内中川(なかがわ)次郎兵衛入道父子を召し捕えた。中川の地名は河内にはなさそうで、中川氏はどこの武士かはわからない。岸和田治氏は「当御手に属し」て中川氏の住所を攻撃した。ついで正月八日、同じく「当御手に属し」て和泉若松荘(現堺市)玉井(たまい)彦四郎入道の城ならびに和田・菱木(ひしき)以下凶徒(足利方)の住所を焼き払い、正月二六日には横山(現和泉市)に出撃し、同じく住宅を焼き払った。

 「当御手」とは直属の指揮官をさし、田代氏の軍忠状には細川顕氏が証判しているように、通常は軍忠状の証判者をさす。ところが岸和田治氏の軍忠状は証判のない案文(写)で伝わっており、「当手」は誰なのか明らかではない。しかし和田文書中に伝わっていることからみれば、あるいは和田氏を直属の大将としたのであろうか。ただし高木遠盛の軍忠状も同じく和田文書中に伝わる証判のない案文であるが、小山三郎右衛門尉忠能(ただよし)、和田左兵衛尉正興(まさおき)などと、合戦ごとに所属した指揮官の名前を記している。ところで岸和田治氏らが攻撃した「凶徒」の中にも、和田氏がいる。元弘の変の末期に、和田氏は一族で分れて鎌倉幕府方と後醍醐天皇方との双方に軍忠状をだしていたことは前述したが、内乱の再開にあたっても、和田氏は南朝方につくか足利方につくか判断に迷い、一族で分れてとりあえず双方に味方したものであろう。このような武士は、河内にもいたに相違ないし、この後とも、河内や和泉の武士が、南朝につくか、幕府につくか、その動きは複雑である。

 それはともかく、三月二日、岸和田治氏らは古市郡に討ってでて、要害(城)を構えた。ところが丹下三郎入道西念(さいねん)らが攻めてきたので、治氏は野中(やちゅう)寺(現羽曳野市)の前に出撃して合戦し、丹下西念らを丹下城(同)に追い籠め、在家(ざいけ)を焼き払った。三月一〇日、細川兵部少輔(顕氏)と細川帶刀先生(たてわきせんじょう)(直俊(ただとし))が大将軍となって古市に攻め寄せてきたので、岸和田治氏は野中寺の東で防戦し、さらに退く敵を藤井寺の西、岡村(現藤井寺市)の北まで追いかけて奮戦した。

 三月一〇日の合戦は、足利方大将の一人細川直俊(なおとし)が討ち死する激戦となったが、岸和田治氏の軍忠状には、「当国(和泉)守護代大塚掃部助惟正(これまさ)并(ならび)に平石源次郎・八木弥太郎入道法達已下」と同所で合戦したから、治氏の活躍ぶりは、これらの武将が知っているはずだ、と記している。建武新政下で和泉の守護も楠木正成がかねたが、大塚惟正は守護正成のもとで守護代となっていたのであろう。なおこのころ足利方の和泉守護には、畠山国清がなっているが、大塚惟正はひきつづき南朝方の和泉守護代であり、楠木一族らとともに東条に入って南朝軍の中核となったものと思われる。

写真48 岸和田治氏軍忠状案(部分) 延元2年3月日(和田文書)