建武三年(延元元、一三三六)一二月の細川顕氏の天王寺下向いらい細川軍に属した田代顕綱は、翌年三月一〇日の坪(壺)井川原の合戦よりはじめて、八月一七日の石川川原の合戦まで毎度の合戦に従軍した。三月一〇日の合戦は細川軍の南朝軍に対する最初の本格的な攻撃であったが、その場所は田代顕綱の軍忠状では坪井河原と記されている。岸和田治氏の軍忠状に記す古市郡の要害は坪井川原の近傍にあり、その後も石川川原で合戦が繰り返されたようである。この要害は、源平合戦期の石川城そのものかその近傍と思われ、富田林市域に至近の場所にあった。
石川川原での合戦が断続的につづいていた間の七月四日夜、南朝軍高木遠盛は小山三郎右衛門尉忠能(ただよし)の手に加わって、河内国伊香賀(いかが)郷の地頭土屋宗直(つちやむねなお)らが籠る八尾城(現八尾市)を攻め、八月一六日にも再度攻撃、八月一七日天王寺から細川勢が八尾城を赴援すると、山井(現柏原市)で戦い、一八日には丹下城を攻めた。一〇月五日、高木遠盛らはふたたび八尾城を攻めた。田代了賢は細川勢の一員として八尾城に赴援したが、八尾城に南朝軍によって焼き払われてしまった。
その報復のためであろうか、細川勢は一〇月一三日から東条を攻撃することになった。田代了賢・顕綱は細川勢に従軍してまず教興寺(現八尾市)に出、一〇月一七日片山(現柏原市)に進んだところで南朝軍の攻撃をうけ、田代了賢は奮戦して敵を東山の峯に追いやった。一〇月一八日は西琳寺(現羽曳野市)に進み、田代了賢は駒ケ谷(同)に立て籠る南朝軍を追い散らし、僧宗禅(しゅうぜん)を生け捕りにして守護代官の秋山四郎次郎に引き渡した。
一〇月一九日、細川勢は「楠木赤坂」を攻めることになった。南朝軍数百人が「山城東岸上」にかけ出してきたので、田代了賢はその日の軍奉行椙田(すぎた)六郎の命をうけて攻撃にむかい、北方より搦手に廻って「山城南城」の敵を追い落とし、件(くだん)の城を焼き払い、東岸の後より押し寄せて敵を攻め落とした。同じ時田代顕綱は「石河里」を焼き払い、「東条口」の山城で奮戦した。いっぽう、細川勢を迎え撃った高木遠盛は、「山城口」でずいぶん合戦をした。「山城」は現河南町の地名で北大伴の東側にあたる。「山城口」は、石川と千早川の合流点付近であろう。
軍忠状に記される延元二年(建武四)の東条合戦の経過は、およそ以上のとおりである。細川勢の目標は、「楠木赤坂」とあるから、楠木氏の本拠である森屋・水分辺を目ざしたものと思われる。しかし「東城口」「山城口」ではげしい合戦をしたものの撃退され、天王寺に引き揚げたものと思われる。
同じころ、和泉南部の武士淡輪(たんのわ)氏や日根野(ひねの)氏が参加した幕府軍は、和泉から天野寺(金剛寺)を攻撃した。南朝軍岸和田治氏は、一族の岸和田定智(じょうち)らとともに八月から和泉の宮里城(現和泉市)や横山で戦い、幕府軍の天野寺攻撃には、これを背後から攻めたので、幕府軍の天野寺方面の占領はならなかった。岸和田氏も淡輪・日根野氏もそれぞれ軍忠状をのこしているが、天野寺を攻めた日根野氏に細川顕氏は感状を与えているから、天野寺攻めは細川勢の東条攻撃を側面から支援するものだったのであろう。
延元二年(建久四)の合戦は、こうして東条に本拠をおく南朝軍が、壺井の辺に要害を構え、八尾にまで出撃した。これに対して幕府方の河内守護細川顕氏は、和泉の幕府方武士も動かしていったんは東条近くまで攻めこんだものの、東条の占領はおろか、南河内の制圧もならず、摂津の天王寺においた本拠を河内国内に進めることもできなかった。南河内においては、南朝軍優勢のうちに、南北朝の内乱は開幕したのである。