延元三年(暦応元、一三三八)三月八日、南朝軍高木遠盛は和田左兵衛尉正興の手に属して丹下城を攻撃し、数日合戦をした。同じ時幕府軍田代了賢の若党三宅左近四郎有重(ありしげ)は、南朝軍を石川川原で迎え撃ち、重傷を負った。
この日、南朝軍の北畠顕家が、天王寺の細川顕氏の本営を攻撃していた。高木遠盛らの丹下城攻撃はこれに呼応したものである。同じころ顕家の弟顕信(あきのぶ)は山城の八幡山に挙兵し、摂津西部でも南朝軍の活動が活発化した。北畠顕家は後醍醐天皇の信任厚かった公卿北畠親房(ちかふさ)の子で、建武新政のさいは親房は出家していたため顕家が登用され、陸奥守となって陸奥国多賀城(現宮城県)に赴任していた。建武二年(一三三五)足利尊氏が鎌倉で造反し京都を目ざすと、顕家は陸奥の軍勢を引き連れて西上し、いったん京都を占領した尊氏を九州に西走させるのに大きな戦功をあげた。その後陸奥に帰任していた顕家は、吉野に移った後醍醐天皇の要請によってふたたび西上した。しかし今回は美濃(現岐阜県)青野原で幕府軍に敗れ、伊勢を経由して奈良から京都を目ざそうとしてふたたび敗れた。だが天王寺の戦いでは、河内などで南朝軍が呼応して攻勢にでたこともあって顕家軍が勝ち、細川顕氏を敗走させた。顕家は渡辺まで進出した。ところが八幡を攻めていた足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)が、細川顕氏と入れ替りに南下した。三月一六日顕家は高師直軍とふたたび天王寺で戦って敗れ、阿部野に退き、ついで和泉国堺へ軍をひいた。五月に入って、高師直は、田代氏らも加わった細川顕氏軍とともに堺を攻め、北畠顕家は、五月二二日、石津(現堺市)で討死してしまった。
同じ日、高木遠盛は高安(現八尾市)を攻め、天王寺から出撃してきた細川勢と戦い、萱振(かやふり)荘(現八尾市)の在家を焼き払っている。遠盛らの動きは、堺の北畠顕家を支援するものだったのであろう。その顕家は討死してしまったが、南河内の南朝軍の活動は少しもおとろえなかった。高木遠盛は、六月には八幡にいる北畠顕信を支援するため北河内へ出撃、閏七月には丹下城の細川勢が松原荘(現松原市)に城郭を構えたのでこれを追い落とし、同じ時丹下八郎太郎の子息能登房を討ちとり、八月にはふたたび高安の細川勢の陣を焼き払った。延元二年いらい、細川勢は八尾(高安)・丹下の前線基地を南河内にむかって一歩も進めることはできなかった。
ついで九月二二日には、高木遠盛は野田荘(現堺市)に構えた細川勢の城を追い落とした。そして、
一、同(延元三年)九月廿九日、佐備(さび)三郎左衛門尉正忠(まさただ)の手に属し、池尻・半田にあい向い、随分合戦を致し畢(おわ)んぬ。
と遠盛の軍忠状は記している。三月、閏七月と九月二二日には盛遠は、和田正興の手に属したと記しているが、九月二九日には、佐備三郎左衛門尉正忠の軍に所属して、池尻・半田まで出撃したというのである。池尻・半田は現大阪狭山市である。高木遠盛らを配下にしたがえて出撃した佐備正忠は、その苗字から、富田林市域の佐備を本拠とする武士とみてまちがいない。だが佐備氏自身は、残念ながら何の史料ものこしていない。佐備正忠の姓名が史料の上に登場するのは、高木遠盛の軍忠状にただ一度だけ、ほかに次項で述べるように「佐美」の姓で南朝軍の一員として『太平記』にただ一度登場するだけである。
こうして佐備氏に関する史料はまことにとぼしいが、高木遠盛よりは一段上の、一方の攻撃軍の指揮官を任される、東条を本拠とする南朝軍の有力武将であった。佐備氏の成長過程や元弘の変での活躍ぶりは知る由もないが、おそらく楠木軍に属していたのであろう。そして南北朝内乱の渦中でこうして活躍することで、武士=在地領主としての一段の成長と飛躍を期していたはずである。佐備氏に関する史料はあまりにとぼしいとはいえ、今まで述べてきた歴史のどこかに、佐備氏の姿も埋没して存在することを、確認しておこう。