東条に本拠をすえ、佐備正忠もその一員であった南朝軍は、このように活発に攻勢に出、幕府の守護細川顕氏を河内国内に入部させなかった。しかし南朝の勢力を全体としてみれば、延元三年(暦応元、一三三八)を境に、大きく退潮することになった。北畠顕家の討死につづいて、七月には八幡も落城、閏七月二日には新田義貞が越前(現福井県)藤島で戦死した。九月には、北畠顕家が二度まで大軍を動員し得た陸奥鎮守府を再建すべく北畠親房が伊勢から海路陸奥入りを目ざしたものの、海上で暴風雨にあって遭難し、陸奥に到達することもできなかった。そして翌延元四年(暦応二年)八月一六日、後醍醐天皇は、吉野で、京都を回復する悲願も空しく、波瀾の生涯を閉じた。あとは皇子の後村上(ごむらかみ)天皇がついだが、南朝はその中心を失なったのである。
これにひきかえ、北朝・幕府方では、新田義貞戦死の翌月、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に補任され、形式上も幕府の再興を完成し、同月、北朝は後醍醐天皇が定めた建武の年号を改め、暦応と改元した。
南朝軍の壊滅と後醍醐天皇の死とによって、内乱は大きな転機をむかえた。しかし南朝の退潮のあと、こんどは幕府内部で深刻な分裂抗争がおこった。そして反主流派は南朝に降伏し、一時は将軍足利尊氏までが南朝に降伏する始末で、南北両朝を旗印とする内乱が、さらに長くつづいた。その過程で、富田林市域や近傍でも、はげしい合戦が繰り返されることになったのである。