正平二年(貞和三、一三四七)八月一〇日、楠木正成の子正行が率いる南朝軍は、紀州隅田城(現和歌山県橋本市)を攻めた。ついで八月二四日、正行軍は河内池尻で戦い、九月九日には八尾城を攻めた。そして九月一七日、正行軍は藤井寺で大いに細川顕氏軍を破り、一一月二六日、細川顕氏・山名時氏(やまなときうじ)らの軍と再度住吉・天王寺で戦ってまたまた大敗させた。九月九日までの合戦は、正行に従軍した和田助氏(すけうじ)の軍忠状に簡単に記されるだけであるが(中世四〇)、藤井寺の戦いと住吉・天王寺の戦いは、和田助氏の軍忠状のほか『太平記』(巻二五)にもえがかれていて有名で、ほかにも関係史料は多い。
こうして東条に本拠をおく南朝軍は、延元三年(暦応元、一三三八)佐備正忠が池尻・半田を攻撃していらい、史料の上では九年ぶりに攻勢に出て、大勝利をおさめた。この九年間は、たんに史料がのこらないだけでなく、実際にも顕著な合戦はなかったものと思われる。南朝の勢力が大きく退潮した中で、東条の南朝軍も逼塞(ひっそく)するほかなく、その様子をみて、幕府も河内守護細川顕氏も東条を積極的に攻撃はしなかったようである。
だが東条の南朝軍は勢力を温存しており、楠木一族の総領として、正行が成長していた。正行は延元五年(暦応三、一三四〇)四月二六日付で、跡部(あとべ)左近将監に宛て、小高瀬荘(現守口市)領家職を観心寺の祈祷料所とする後村上天皇綸旨を伝達し、はやく沙汰するよう命じた国宣(国の守の命令)を出している(「観心寺文書」三四)。正行は、正成のあとをついで、南朝から河内守に補任されていた。また興国五年(康永三、一三四四)には、観心寺鎮守社の火災を心配し、その再建をよろこぶ二通の自筆書状ものこされている(「同」四四・四七)。南河内において、正行の存在はしだいに大きくなっていたものと思われる。
その正行が、正平二年にわかに攻勢にでたきっかけについては、『太平記』が、父正成の一三回忌にあたることから、遠忌を修して出撃した、と記す以外には、史料はない。一三回忌には実は一年早いが、一年早く年忌の仏事を修するのはよくあること、正成の一三回忌仏事を修して楠木一族と東条南朝軍の結束をあらためて固めた上で、南朝の退勢を挽回すべく、攻勢に出たものであろうか。
その手始めに紀伊を攻めたのは、背後の不安をのぞく作戦であろう。正行軍のにわかな攻勢は、幕府を驚かせた。幕府はいそいで「南方凶徒対(退)治」のため河内守護細川顕氏・紀伊守護畠山国清を派遣することとし、八月九日付で、各地の武将に軍勢催促状を発した。田代一族はじめ近江の佐々木経氏(つねうじ)、伊予の河野通治(みちはる)らに宛てた軍勢催促状が伝わっている(朽木文書、田代文書、「徴古雑抄」、『大日本史料』六ノ一〇)。公家洞院公賢(とういんきんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』八月一九日条には、紀伊熊野の凶徒(南朝軍)が和泉・摂津をうかがっているとの風聞を記している。ついで八月二一日条には、和泉の凶徒はなお強勢であり、細川顕氏は天王寺に陣どったが以ての外無勢で、凶徒が攻めてくればたいへんなので堺にむかうが、援軍をほしいと飛脚がきたとの伝聞を記し、さらに八月二二日条には、顕氏が堺にむかったところ、凶徒は引き退いたとの噂を記している。熊野の南朝軍が動いたことは風聞にすぎず、和泉の南朝軍の動きも『園太暦』以外に史料はないが、正行に呼応して、攻勢の動きがあったのであろうか。あるいは、正行軍の攻勢を軸に、南朝から近幾各地の支持者に対し、一斉蜂起を促す指令があったのかもしれない。いずれにしても正行軍の動きは、京都には南朝軍の大規模な攻勢と伝わり、狼狽した様子がうかがわれる。正行軍の蜂起は、まことに効果的であったわけである。八月末から九月半ば、北朝と幕府は、延暦寺や東寺など諸寺に、「紀州合戦」の勝利、「南方凶徒退治」の祈祷を命じてもいる。
九月一七日の藤井寺の戦いについて、『園太暦』は「河州教興寺合戦」と記すが、これは九月九日の八尾城合戦と混同しているかもしれない。はじめ細川顕氏は優勢であったが、夜に入って正行軍が急襲し、官軍(幕府軍)は敗れ、多くの死者、生死不明者をだした、と記している(九月二九日条)。『太平記』も、細川勢三〇〇〇騎が藤井寺に布陣して油断していたところへ、正行軍七百余騎が、誉田(こんだ)八幡宮(現羽曳野市)の後の山かげから急襲した、と記している。
一一月二六日の住吉・天王寺の戦いについては、『園太暦』は、「天王寺ならびに堺浦合戦」とし、細川顕氏は幾合戦もせず引き退き、山名時氏は心力をつくして戦ったが、舎弟両三人が討死し、時氏父子も負傷して引き退いたと記している。なお山名時氏も幕府の有力武将で、藤井寺の戦いのあと、東条南朝軍攻撃を命ぜられていた。『太平記』によれば、折から合戦に不むきの厳冬であるが、正行軍に勢いをつけさせないために、一一月二五日に、これまでも東条攻撃の本陣をしいてきた天王寺に細川顕氏が、住吉に山名時氏が布陣した。正行は、城郭を構えない前に即刻攻撃することにし、一一月二六日早朝、石津の在家に火をかけ、瓜生野(うりうの)(現大阪市東住吉区)から住吉の山名軍を攻撃、山名時氏の弟兼義(かねよし)は討死し、時氏も負傷して山名軍は敗れ、山名軍も天王寺の細川軍も、退路を断たれることを心配し背後の渡辺橋を守ろうとして総崩れとなった。『太平記』がえがく住吉・天王寺の戦いの様子は、大筋において『園太暦』の記事と符合する。
こうして楠木正行を大将とする東条の南朝軍は、みごとな勝利をおさめたのであった。