楠木正行軍の二度の勝利は、各地の南朝軍を勇気づけ、反面幕府をあわてさせた。幕府はあらためて各地の武士を動員するとともに、執事高師直と、その兄弟師泰(もろやす)を南朝軍追討の大将に任命した。細川顕氏は二度の敗戦によって河内守護から失脚し、守護は高師泰と交替した。
高師泰は正平二年(貞和三、一三四六)京都を出発して淀(現京都市伏見区)につき、高師直も一二月二六日京都を出発して八幡についた。師泰の軍勢は二万余騎、師直の軍勢は六万余騎と『太平記』はいう。
正平三年正月二日、師直は八幡を出発して河内路にむかい、師泰は堺に入って、河内をめざした。『太平記』(巻二六)によれば、四条(現四条畷市)についた師直軍は、このままいっきに攻め寄せては、楠正行軍が待ちうけているだろう、攻めさせた方が勝機があると考え、飯盛山・生駒山から四条畷にかけて五隊に分かれて布陣し、師直は二十余町(約二キロメートル)後に下って本陣を構えた。これに対して南朝軍は、四条中納言隆資(たかすけ)を大将として、和泉・紀伊の野伏(のぶせり)二万余人を率いて飯盛山に向かった。そして山上に布陣していた師直軍をひきつけておいて、その間に楠木正行軍に四条畷に突入させる作戦をとった。正行軍は奮戦して師直の本陣に迫り、師直と偽って上山(うえやま)六郎左衛門が討死するほどであった。しかし衆寡敵せず、朝巳の刻(午前一〇時ごろ)から申刻(午後四時ごろ)まで三十余度も戦ったあと、正行は弟正時と刺しちがえて討死し、多くの一族らも討死してしまった。これが四条畷の戦いのあらましである。『太平記』は合戦の様子をくわしく記したあと、南朝の勢いがふるわない中で、都近くでただ一人活躍していた楠木正行が討死したことで、「聖運(南朝の天皇の運)已ニ傾キヌ、武徳(将軍足利尊氏の徳)誠ニ久シカルベシト、思ハヌ人モ無リケリ」と評している。
『園太暦』は、高師直が東条を攻めようと讃良(生駒山西麓)より向かったところ、東条軍勢が襲来して激戦となり、楠木正行、同舎弟、和田賢秀(けんしゅう)らが自刃したと記している(貞和四年正月六日条)。大軍の師直軍が布陣して待ちうけている所へ南朝軍から攻めかけて、南朝の運命を決しかねない敗戦をきっしたのであった。正平二年八月、紀伊隅田城を攻めていらいわずか四カ月の戦歴で、楠木正行は討死せねばならなかった。『太平記』は南朝軍の大将を四条隆資と記すように、四条畷に師直軍を攻撃することは、正行の本意ではなかったと思われる。おそらく、当時南朝の中心となっていた北畠親房はじめ公家らの作戦だったのであろう。高師直は東条をまっすぐ攻撃することを危惧したと『太平記』は記すように、正行軍も東条に籠ってこそ勝機も見出し得たのではなかったろうか。正行は、出撃の直前、最後の参内と覚悟して吉野におもむいて後村上天皇に謁し、後醍醐天皇の御陵にも参拝し、いっしょに討死することを約束した一族や兵士の名を、御陵の傍の如意輪堂の壁板に書きつらねて過去帳にしたと『太平記』は記している。その史実は他の史料では確認できないが、正行もまた、死を覚悟しての四条畷出撃であった。その最期は、あたかも父楠木正成の最期と同様であった。
高師直軍は、大和に入って吉野を攻め、正月二四日吉野を占領した。その直前、四条畷から逃げかえった四条隆資の報告を聞いて、後村上天皇はじめ南朝の人々は賀名生へ難をさけた。正月二八日、吉野の皇居や蔵王堂などは、師直軍の放火によって炎上してしまった。