一方高師泰は、貞和四年(正平三、一三四八)正月八日堺を出発して東条攻撃を開始した。師泰軍には和泉の武士淡輪助重・田代了賢が従軍し、またのちに摂津の多田院御家人森本為時(もりもとためとき)も参陣して、いずれも軍忠状をのこしている(中世四〇)。東条の南朝軍は、正月五日の四条畷の合戦で楠木正行以下主だった武士が討死したものの、正行の弟正儀(まさのり)が生き残っていて以後東条南朝軍の中心となり、また和田助氏も生き残って、南朝軍側の軍忠状をのこしている(同上)。これらの軍忠状などによれば、高師泰軍の東条攻めの経過は以下のとおりである(特に史料を示さない場合は、すべてこれらの軍忠状による)。
正月八日、師泰軍はまず古市を攻撃した。前述のように延元二年(建武四、一三三七)に古市に築いた要害は、東条南朝軍の前線基地としてなお維持されていたものであろうか。ついで正月一二日、師泰軍は太子廟に打ち入って焼き払ってしまった(「斑鳩嘉元記」貞和四年正月一二日条)。そして正月一四日、二月八日と東条を攻めたが、師泰軍の東条占領はならなかった。『太平記』(巻二六)は、師泰軍を六千余騎とも三千余騎ともいうが、敗残の東条南朝軍もよくしのいだのである。『太平記』は、東条攻撃のため師泰軍は石川川原に向城(むかいじろ)を築いたが、「互ニ寄(よせ)ツ被(られ)レ寄ツ、合戦ノ止(やむ)隙モナシ」という。
向城は、軍忠状では「石川御陣」と記されている。その場所は現在の河南町大ケ塚辺という説もあるが(『大阪府史跡名勝天然記念物』一)、富田林市甲田という説もある(『日本城郭史体系』一二)。「石川川原」「石川御陣」という表現や、次に述べるように佐備谷口でも合戦があったことからすれば、甲田である可能性が高いように思われる。
淡輪助重は、二月から和泉守護代の手に属して和泉で戦うことになった。河内に呼応して、和泉でも南朝軍が立ち上ったのである。三月一八日、一九日と師泰は東条を攻め、和田助氏は佐備谷口の所々で合戦をした。佐備氏らも、南朝軍の一員として戦ったであろう。四月二六日には、師泰は天野二王山(現河内長野市)を攻め、和田助氏は防戦した。
その後しばらくは、南河内での合戦の史料はない。師泰は引きつづき石川向城に在城したが、戦線は膠着状態に入ったものであろうか。正平三年七月一九日付で、北畠親房は和田助氏に勲功の賞として三河国(現愛知県)釜谷荘内兼清名の地頭職を与え(和田文書)、八月七日には親房は河合寺(現河内長野市)に三河国大内村地頭職を祈祷料所として与え(河合寺文書、『河内長野市史』五)、八月二二日にも親房は観心寺に尾張国(現愛知県)長岡荘地頭職を興隆料所として寄進している(「観心寺文書」五二)。同じ八月二二日付で北畠親房は、観心寺の興隆によって聖朝安全を祈願する自筆願文を観心寺宝前に捧げている(「同」五三)。この間和泉では淡輪助重が参加した合戦がつづき、紀伊には足利尊氏の庶子で直義養子の直冬(ただふゆ)が進攻して、阿瀬川城から日高郡方面まで制圧していた。賀名生に追いこまれた南朝は、軍事的にもさらにきびしい状況にさらされていたが、それだけに東条でがんばる南朝軍に大きな期待を寄せたものであろう。
貞和五年(正平四)三月、和泉守護代土田九郎とともに、淡輪助重は河内に転戦してきた。淡輪助重は、三月一五日、寺田(現河南町)で、同一八日は山田(現太子町)で合戦し、同一九日には佐備谷口で合戦した。そして四月二二日には日野高岡(現河内長野市)で戦った。高師泰軍はほぼ石川の線から東条にむけては進めなかったようであるが、攻勢を強めたのであろう。高師泰の石川御陣(向城)へ、三月二八日、多田院御家人森本為時が一族を率いて新しく着陣した。多田院御家人とは、源氏の祖多田満仲の廟所多田院(現多田神社、兵庫県川西市)の警固などのため、鎌倉幕府が周辺の武士を任命したものである。鎌倉幕府の滅亡後この制度はなくなったが、もと多田院御家人の子孫は、ひきつづき自称していることが多い。それはともかく、森本一族は三番(三組)に分かれて陣所を警固すべきことを命ぜられ、為時は一族二人らとともに一番となり、四月二一日から五月一〇日まで勤務につき、四月二二日佐備谷合戦、四月二六日には長野庄代の合戦に参加した。佐備谷口は、こうしてたびたび合戦の場となった。森本為時は、一番の勤務あけ後も五月二五日まで在陣し、ついで六月二一日から閏六月一〇日、七月二一日から八月九日と勤務についた。森本一族の二番は五月一一日から晦日、閏六月一一日から晦日と勤番し、同じく三番は六月一日から二〇日、七月一日から二〇日と勤番した。各番二〇日宛の割り当てで陣所に詰め、合戦の時は参加する、というのが、森本一族の石川御陣での軍忠であった。森本一族は誰からどのように動員されたのか、また淡輪氏や田代氏らにもこのような番編成があったかどうかもわからないが、石川向城における勤番制の一端が知られて興味ぶかい。高師泰は、石川川原に向城を構え、配下の武士たちを番によって交替させながら、佐備谷口などでたびたび戦い、東条の奥深くへ攻め入る機会をうかがったが、四条畷の戦いから一年八カ月、ついに東条にはふみこめなかった。東条の南朝軍は、それだけよくしのいだのである。