河内・和泉の守護であり、富田林市域にも小さからぬ足跡をのこした高師泰はこうして生涯を閉じたが、これまでが、じつは観応の擾乱の前半であったにすぎない。つづく後半の擾乱とその余波の中で、東条をはじめ南河内地方は、さらに大きく日本歴史の中でも注目されることになる。
観応二年(正平六、一三五一)二月の、足利尊氏・直義の講和は、長くはつづかなかった。京都ではまもなく政争がぶりかえし、八月一日、直義は畠山国清らとともに北国にのがれ、再度講和の話があったものの、直義は結局一一月半ばに鎌倉に入った。尊氏と直義対立の原因は、この時点では対南朝問題であった。直義の南朝降参は、尊氏との講和でご破算になったが、直義はひきつづき南北両朝合一をすすめようとしたのに対し、尊氏は反対した。しかしさきに直義が南朝に降参して逆転のきっかけをつかんだ波紋は大きく、佐々木道誉(ささきどうよ)や赤松則祐(そくゆう)など、あらたに南朝に通じて独自の勢力をきずこうとする者もあらわれ、尊氏と義詮は孤立を深めた。しかも東条の南朝軍は、ふたたび攻勢を強めていた。和田助氏は、正平六年(観応二)二月一〇日大饗(おわい)城(現美原町)攻撃に参加、七月八日、九日は下村次郎左衛門尉と平井入道の城を焼き払い、七月二五日から九月にかけて和泉を転戦した(中世四〇)。淡輪助重は、正平六年からは楠木正儀に属し、和泉各地を転戦した(淡輪文書、『大日本史料』六ノ一五)。東条南朝軍の動きを制約していた石川向城はさきの直義の南朝降状によって解消しており、楠木正儀はかつては高師泰配下であった淡輪助重らをも味方に加えて、攻勢に転じたのである。
こうした中で、八月はじめ、尊氏自身、南朝に降伏の交渉をはじめた(『園太暦』観応二年八月六・一二日条)。しかし南朝ははじめ尊氏の降伏を認めなかった。事態はきわめて流動的だったからであろう。だが尊氏には、京都を留守にして長駆直義とその支持派討伐に出撃した場合、南朝から京都を占領されるのを防ぐため、どうしても南朝への降伏を実現する必要があった。交渉はその後もおこなわれ、正平六年一〇月二四日付の後村上天皇綸旨によって、尊氏および義詮の降伏が認められ、同時に直義追討を命じる綸旨もうけた。尊氏は一一月三日付で綸旨に対する請文をだすと、京都は義詮に守らせ、翌日には直義追討のため関東にむけ出発した(『園太暦』観応二年一一月三・四日条)。
ところで尊氏の南朝降伏は、さきの直義の場合とちがって、その影響はすこぶる大きい。北朝は、支持基盤を失ったのである。一一月七日、南朝は北朝の崇光天皇を廃止した(『園太暦』同日条)。この日を以て、北朝はいったん消滅してしまった。北朝の年号観応もなくなり、年号は南朝の正平だけとなった。北朝が消滅した事態を「正平一統」という。北朝がだしていた公卿の官位もすべて無効となった。かつて後醍醐天皇が北朝に渡していた三種神器も、南朝が回収した。
ついで南朝は、京都の回復を目ざした。翌正平七年二月二六日、後村上天皇は賀名生を出発、まず住吉神社におもむくことになった。途中しばらく楠木正儀の東条城に滞在するかとの観測もあったが、二七日、東条の観興寺(寛弘寺)に一泊しただけで、二八日には住吉に入った(中世四二)。寛弘寺は天皇の一行を宿泊させる設備をもった寺であったのか、あるいは楠木正儀の東条城がある地名だったのかは、はっきりしない。しかしいずれであっても、一泊とはいえ後村上天皇をむかえたことで、楠木正儀以下東条の南朝軍は、大いに面目を施したことであったろう。和田助氏は、楠木正儀に率いられて二八日の「還幸」(京都に還(かえ)る行幸)に供奉(ぐぶ)し、住吉殿で番役を参勤したと軍忠状に記している(中世四〇)。
後村上天皇は、閏二月一九日八幡に到着、翌二〇日には、楠木正儀らの南朝軍は足利義詮軍を破って京都を占領した。和田助氏の軍忠状には、この日の京都の合戦にも忠節をつくしたと記している。
だが南朝の京都回復は、さきの足利尊氏・義詮の降伏申し入れ許可を一方的に破棄し、強引に実現したものであった。義詮は、後村上天皇が住吉に到着した時から、抗議をくりかえしていた。軍勢の不足からいったんは近江に逃れたが、閏二月二三日から、正平一統によって消滅した観応の年号を復活して軍勢催促状を発し、「合体御違変」の南朝軍を攻撃する軍勢を集め、態勢をたて直した。そして三月一五日にははやくも京都を回復、ついで八幡男山を攻めた。楠木正儀らは八幡に退いて戦ったが、五月二八日八幡は落城し、後村上天皇はふたたび賀名生に逃れた。和田助氏は、八幡落城に先立ち、三月二七日には荒坂山(現枚方市)で、五月六日は和泉の松村(現岸和田市)で、五月一六日には加守(同)で戦っている(中世四〇)。義詮軍の反撃開始とともに、南朝軍は退路を確保せねばならなかったのであろう。
楠木正儀の京都占領直後、もと北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王は八幡に移されたが、三月四日にはさらに東条の広河寺へ移された(中世四三)。輿ではあったが、わずかな供の者をつれただけであったという。八幡陥落の後六月二日には、三上皇らは東条からさらに賀名生に移された。
南朝がさきの三種神器回収についで三上皇らを賀名生まで移したのは、北朝の再建を防ぐためであった。しかし幕府は崇光上皇の弟を確保することに成功しており、八月一七日、新天皇として践祚させた。後光厳天皇である。皇統の象徴である三種神器はなく、もと北朝上皇の意向もわからない状況の中での異常な践祚ではあったが、ともかくも北朝は再建されたのである。正平一統は、九カ月あまりで、うたかたのように消え去った。