「南河内朝廷」

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正平一統は、南朝の実力や威光によってではなく、幕府の内部分裂により、足利直義と尊氏がこもごもと南朝に降伏したことで実現したものであった。しかし南朝首脳は、そうした状勢を十分認識せず、南朝の実力を過信して性急に京都回復を目ざしたところに、正平一統が短期で破綻した原因があった。正平一統のはじめ、有頂天になった南朝は、旧北朝の公卿で賀名生にやってきた人々でも官位をおとしたのに対し、南朝の人々には北畠親房が皇族や五摂家以外には先例のない准后(じゅこう)(皇后、皇太后、太皇太后に准ずる待遇)に任ぜられたのをはじめ、先例を無視した勝手な官位の昇進がおこなわれた。『太平記』(巻三〇)はこのように指摘したあと、「元弘一統ノ政道(建武新政のこと)如(かくのごとく)此ニテ乱(みだれ)シヲ、取テ誡(いましめ)トセザリケル心ノ程コソ愚カナレ」と、南朝の態度を批難している。

 だが、楠木正儀らの南朝軍があらためて京都を回復する機会は、すぐにもやってきた。さきに後村上天皇が京都回復を目ざして賀名生を出発した日と同じ日の正平七年(一三五二)二月二六日に、足利尊氏は鎌倉でついに直義を殺害していた。しかしこれを以てしても観応擾乱の終結とはならず、有力守護や足利直冬らが、南朝方を旗印に、尊氏や嫡子義詮に反抗する擾乱の余波が、その後も長くつづいたのである。

 足利尊氏が関東を転戦してまだ京都にもどれないでいた文和二年(正平八、一三五三)春、南朝方石塔頼房(いしどうよりふさ)らが摂津で攻勢に出た。六月には、前述のように楠木正行と戦って敗れた山名時氏が、幕府に背いて足利直冬に応じて山陰から京都にせまり、六月九日、楠木正儀ら南朝本軍が山名軍と合して京都を占領した。南朝軍二度目の京都占領である。だがこの時も、足利義詮は近江に逃れたものの、七月末にははやくも京都奪回に成功し、七月二八日楠木正儀は河内へ、山名時氏は但馬へ帰った(以上『園太暦』各日条ほか)。二度目の南朝軍京都占領は、二カ月たらずで終わった。

 翌正平九年(文和三)三月三日、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王が、賀名生から金剛寺に移り、寺内の観蔵院を御所とした。ついで同年一〇月二八日には、南朝の後村上天皇も金剛寺に移り、摩尼草堂を御所とした。これらのことは、金剛寺の学頭禅恵が多くの聖教類を書写した、その奥書に、記載は簡単ながら書きとめられている(『河内長野市史』五)。ちなみに時に禅恵は七一歳であるが、鎌倉時代後期から紀伊根来寺など各地の寺院にも出向いて聖教類の書写にはげみ、元弘の変の「動乱」で貴賤上下が苦労したこと、湊川の戦いと楠木正成の討死、四条畷の戦い、観応の擾乱など、以上述べてきた折々の事件についても、書きとめている。

写真57 金剛寺奥殿 旧観蔵院、北朝上皇御所
写真58 金剛寺摩尼院 旧摩尼草堂、南朝天皇御所

 後村上天皇が金剛寺に移ると、南朝の公卿らもしたがってきて寺中坊々一宇ものこさず居住し、また日野・高向・上原・横山など金剛寺近傍の村々にも「官軍」(南朝軍)が「宿住」した。後村上天皇の金剛寺移住は、臨時の行幸ではなく、南朝がそっくり賀名生から移動してきたのである。北朝三上皇らは丸三年弱金剛寺におり、正平一二年(延文二)二月一七日出発して京都にかえされたが、後村上天皇の金剛寺滞在は、正平一四年一二月二三日に観心寺に移るまで足かけ六年におよんだ。その間金剛寺の「損亡申すばかりなく」、すなわちたいへんな物入りで、そのため山の木を伐りはらわねばならなかったし、諸事物怱(ぶっそう)で、寺僧の修学は麁学(そがく)(粗末な学問)になったと禅恵は聖教類の奥書で歎いている。

 それはともかく、後村上天皇は正平一五年九月に住吉神社に移るまで観心寺にいた。正平九年に金剛寺に入っていらい七年の南河内滞在であり、住吉神社に移った後も吉野や賀名生にはかえらず、正平二二年に住吉で没し、御陵は観心寺山内に営まれている。この後村上天皇の後半の時代もふつう吉野朝時代に含めているが、所在地で朝廷名を厳密につけるとすれば、「南河内朝時代」「住吉朝時代」であったわけである。

 ではなぜ「南河内朝」がひらかれたのであろうか。理由を明確に示す史料はなさそうであるが、考えられる理由のひとつは、観応の擾乱の余波がつづく中で、次に述べる幕府軍の進攻以外には、南河内から住吉にかけての地域は軍事的に南朝の制圧下にあったことである。その状況の中で、後村上天皇はじめ南朝の人々は、賀名生よりも、より京都に近い南河内に朝廷を移したのであろう。いまひとつは、後村上天皇はひきつづき南北両朝の合体を模索し、合体をすすめる環境にも好転のきざしがあったこと、などがあげられよう。