幕府軍の河内攻撃

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南北両朝の合体をすすめる環境の好転のきざしとは、南朝の公卿の中心北畠親房が正平九年(文和三、一三五四)に没し、幕府でも足利尊氏が延文三年(正平一三、一三五八)に没したこと、尊氏の死にもかかわらず擾乱の余波はおさまらず、南朝軍は三度目、四度目の京都占領に成功すること、二代将軍となった足利義詮も、その状況の中で南朝との合体を模索していたこと、などである。しかし義詮は幕府内の統率を目ざして一方では南朝に対して大攻勢をかけ、富田林市域内では南北朝内乱中最大の合戦がおこなわれることになる。

 これよりさき正平九年の年末、北陸から桃井直常ら、山陰から山名時氏らが足利直冬とともに京都に迫り、すでに関東から帰洛していた足利尊氏は近江に逃れた。直冬も南朝に降伏しており、足利直義亡きあと、将軍尊氏に反抗する反幕府勢の頭目的存在となっていた。正平一〇年一月、桃井直常・山名時氏・足利直冬らは京都を占領した。南朝軍三度目の京都占領である。折から山陽道に出陣していた足利義詮は京都を目ざして東上、近江の尊氏も態勢をたて直し、京都の南朝軍を挟撃する形となった。二月、摂津神南(こうない)(現高槻市)に布陣した義詮軍に対し、京都から山名勢らが、淀川の南からは、四条隆俊(たかとし)・法性寺康長(ほっしょうじやすなが)を大将とするほんらいの南朝軍が攻撃した。『太平記』(巻三二)は、この「吉野の軍兵」の中に、楠木正儀・和田氏らとならんで「佐美」氏をあげている。『太平記』に佐備氏が登場するのはこの合戦だけであるが、佐備氏は東条南朝軍の一員としてひきつづき活躍していたのである。神南の合戦は結局南朝軍の敗戦に終った。ついで京都市中で合戦がつづいたものの、三月直冬は京都から退散し、桃井直常・山名時氏らも帰国して、南朝軍三度目の京都回復も失敗に終った。ただし桃井直常・山名時氏らは尊氏に降ったわけではなく、尊氏派の武将の間でもあらたな対立がおこるなど擾乱の余波はなお深刻であったが、そうした中で延文三年(正平一三、一三五八)足利尊氏が没し、足利義詮が二代目の将軍となった。

 そのころ関東では、畠山国清が新田義貞の子義興(よしおき)を有名な矢口渡の戦いで滅して関東の南朝方にとどめをさし、武名をあげていた。国清ははじめ足利直義の支持者で、国清がいた石川向城に直義をむかえたことから観応の擾乱が火をふいたことは前述したが、観応擾乱の後半に尊氏方につき、直義派討伐のため東下した尊氏に同行、以後鎌倉公方足利基氏(もとうじ)(義詮の弟)の執事となって活躍していたのである。延文四年(正平一四、一三五九)一一月、その畠山国清が、『太平記』(巻三四)が二〇万騎という大軍を率いて入京した。むろん南朝に一大攻勢をかけるためである。新しく将軍となった義詮が国清軍を呼びよせたとみる研究もあるが(佐藤進一『南北朝の動乱』)、国清が中心になって南朝を征服し、幕府内での主導権を握ろうとしたとみることもできるように思われる。

 畠山国清軍の上洛は、南朝にも大きな脅威を与え、中院通冬(なかのいんみちふゆ)のように南朝を見限って京都に帰り北朝出仕を願う公卿もあった(『園太暦』延文四年一二月一三日条)。『太平記』によれば、楠木正儀・和田正武(まさたけ)は天野(金剛寺)の行宮に参内し、国清勢はいかに大軍でも、天の時、地の利、人の和にそむいているから恐れるにたりない、しかし金剛寺は奥深くない所であるから行宮を観心寺に移し、楠木・和田勢は元弘いらい攻略されなかった千早・金剛山に籠って龍泉・石川辺に出撃し、また背後の紀伊国にも防衛線をしいて、長期戦を構えれば、必ず勝利できると事もなげに奏上したので、後村上天皇以下側近や公卿らもたのもしく思ったという。

 楠木正儀らの提案によって、後村上天皇は金剛寺から観心寺へ移った。前にも述べた金剛寺の学頭禅啓が記した聖教類の奥書によれば、正平一四年一二月二三日のことである。

 観心寺に供奉する人数を極力少なくしたため、公卿はじめ廷臣や女房らの中には、紀伊や吉野・十津川の奥へ逃れたり、京都や奈良に立ち帰る者もあったと『太平記』は記している。

 後村上天皇が観心寺に移ったのと同じ一二月二三日、新将軍足利義詮みずから、細川清氏・仁木義長(にきよしなが)・赤松則祐ら、『太平記』は七万騎という大手軍を率いて京都を出陣し、尼崎にむかった。いっぽう畠山国清は、二〇万騎といわれる東国勢を率いて搦手となり、北河内の葛葉(くずは)(現枚方市)辺に布陣した。これは大手軍が舟橋をかけて渡辺で大川をこえる時楠木・和田勢らが攻撃をしかけてくることを予想し、生駒道を南下して敵を包囲する作戦であった。しかし、楠木・和田勢は渡辺橋であえて防ごうとしなかったので、大手・搦手軍は大川を南へこえて、天王寺・阿倍野・住吉の遠里小野に布陣した。ただし、足利義詮自身は、幕府軍の河内や紀州攻撃の間中、尼崎を動かなかった。楠木・和田勢ら東条の南朝軍は、大軍の幕府軍を前に、城に籠って戦えば包囲されてついに落城すると予想し、深山幽谷に姿をくらませ、たくみに出没して敵を疲弊させる作戦をたてていた。しかし幕府軍も住吉・天王寺辺に布陣したまま、いっこうに攻め寄せてこない。そこで東条の南朝軍も陣をしき、城を構えて合戦することに作戦を変更した。楠木正儀・和田正武は、大急ぎで赤坂城を構えて三百余騎で立て籠った。福塚(ふくづか)氏(現河南町大ケ塚の武士か)・川辺(かわべ)氏(現千早赤阪村川野辺の武士か)・橋本判官(現貝塚市の武士)らは平石(ひらいし)城(現河南町)に五百余騎で立て籠り、また八尾の城も修復した。さらに河内や大和の兵千余人をば、龍泉峰に塀を塗り、櫓を造らせ、「見せ勢」にして配置した。龍泉峰は、富田林市龍泉の、龍泉寺西方の山である。「見せ勢」とは、敵をあざむくために、実際よりも大勢いるようにみせかける軍勢をいう。幕府軍の出撃と、これをむかえ撃つ南朝軍の様子を、『太平記』は大要このように記している(中世四七)。

写真59 平石城跡 河南町