『太平記』(巻三四)はつづいて、延文五年(正平一五、一三六〇)二月一三日、幕府軍は三万余騎を住吉・天王寺に入れかえて後陣とし、先陣は二〇万騎で、金剛山の乾(いぬい)(西北)にあたる津々山(つづやま)に打ち上って陣を取り、敵・味方五十余町(約五キロメートル)を隔てるだけで対陣したと記している(中世四七)。津々山に陣を構えたことは、この時は幕府軍細川清氏に属した田代顕綱の軍忠状(中世五〇)によっても確認される。津々山は、現富田林市廿山(つづやま)付近である。現在は開発がすすんで城跡は確認されないものの、さきに高師泰の東条攻撃にさいし石川川原に向城を築いたのと同じように、今回は津々山に向城が築かれたのである。
幕府軍が津々山に布陣し未だ合戦がはじまらない前に、丹下・俣野・誉田(こんだ)・酒匂(さかわ)・水速(みずはい)・湯浅・貴志(きし)氏ら五百余騎が、はやくも幕府軍に降参したと『太平記』は記している。大軍の駐留をみて、南朝軍の一部に動揺がひろがったものであろう。このうち丹下氏はもと幕府方、丹下城に拠って南朝軍と戦ったことは前に述べた。その後南河内で南朝軍の優勢がつづく中で、南朝方になっていたのであろう。いっぽう和田助氏に宛てて、二月四日付で和泉国近木郷などの所領を安堵した後村上天皇綸旨がだされ、楠木正儀らがこれを施行しているのに対して、三月一〇日には畠山国清が、同じく和田助氏に宛てて和泉で所領を与えて味方に招き(以上和田文書、常陸・薩摩和田文書、『大日本史料』六ノ二三)、四月二八日には細川清氏が和田助朝(すけとも)を味方に招いている(薩摩和田文書、『同』)。南朝側は武士たちの離反を何とかひきとめようとし、幕府もまた動揺する南朝方の武士たちに、誘いをかけたのである。そして、今まで述べてきたように南朝軍にあってずい分活躍してきた和田助氏は、六月までに、幕府方となった。
『太平記』はつづいて、降人の続出で、南朝軍は長くはもつまいと人々は思い、騎馬の兵による勝負を決するほどの合戦はなく、両陣から野伏(のぶせり)を出しての小競合がつづいた。しかし勝手知った南朝軍に幕府軍がいつも敗れ、これでは楠木正儀らの術中にはまると気付きながら、どうすることもできなかった。そのうちに畠山国清の兵は、神社仏閣に打ち入り、前代未聞の悪行をはたらいた、と記している。三月一七日、畠山国清は金剛寺に乱入し、大門・往生講堂や三五宇もの坊舎を焼き払ったことが、学頭禅啓の聖教類奥書に記されている(『河内長野市史』五)。