さて龍泉の城には、前述のように河内・大和の兵千余人を配置していたが、幕府軍はいっこうに攻めようとしなかった。これでは意味がないと考えた楠木正儀らは、龍泉城には野伏一〇〇人ばかりを「見せ勢」にのこしただけで他はよびもどし、そのかわりあちこちの木の梢などに旗ばかりを結びつけ、なおも大勢籠っているように見せかけていた。津々山の寄せ手はこれを見て、いよいよ恐れて近づかなかった。ところが寄せ手土岐桔梗一揆(ときききょういっき)(一揆は中小武士の集団。美濃の武士団)の中に、兵学の心得のある者がおり、城の上を飛ぶ鳥が驚かないことから、旗ばかりで何ほども軍勢がいないことを見破った。そして桔梗一揆だけで龍泉城を攻略して功名をあげようと主張した。一揆の面々はみな賛成し、閏四月二九日の早朝、ひそかに津々山を下り龍泉城の一の木戸口に押し寄せ、鬨の声をあげた。細川清氏と赤松則祐の一族範実(のりざね)とは津々山城で詰所をならべていたが、龍泉城の鬨の声を聞いて他人に先懸けをされたと驚いたが、城へ伐り入ったわけではないと気をとり直してともに西の木戸口へかけ付け、先懸けを争った。城兵はしばらくは戦ったあと、もとより多勢に無勢なので、赤坂城へ逃れた。桔梗一揆の活躍を聞いて陣々から十万余騎が龍泉城の麓へ集ったが、すでに城は攻め落とされたあとで、城兵が小勢であることを知らず土岐氏・細川氏に高名させたことは残念だとくやしがったことであった。
以上が『太平記』(巻三四)、「龍泉寺軍事(いくさのこと)」の概略である。龍泉城には屏や櫓が設けられ、一の木戸、西の一の木戸など木(城)戸があったらしいことも判明する。ただし東条の南朝軍にとっては主要な城ではなく、見せ勢を入れて敵をあざむく城であった。そして楠木正成の千早城での戦いのように、その子正儀もまた龍泉城でしばらく敵を翻弄することに成功したのである。
しかし、龍泉城が落城した意味は大きかった。これに刺激されて今川範氏(いまがわのりうじ)らが平石城を攻め落とし、八尾城もこらえきれずに落城、ただ一城のこった赤坂城から和田正武が夜襲を試みたが成功せず、楠木正儀とともに城に火をかけて金剛山の奥へ逃れ、赤坂城も落城してしまったのである。なお龍泉城や平石・赤坂城の合戦や落城は、『太平記』のほか二、三の軍忠状にあらわれ、また京都の公家近衛道嗣(このえみちつぐ)の日記『愚管記(ぐかんき)』にも、「河州凶徒の城三カ所(龍泉・平石・八尾か)責め落とす」(延文五年五月一日条)、「楠木赤坂城没落」(同五月一〇日条)などと記されている。
こうした間に、畠山国清の弟義深(よしふか)が紀伊の南朝方を攻略していた。また四月には南朝内部で護良親王若宮が反乱をおこし、賀名生の皇居は焼失していた。反乱は鎮圧されたものの、南朝はもはや逃げこむ先もなくなっていた。観心寺の後村上天皇らは、敵襲来の恐怖におそわれていたと『太平記』は記している。龍泉・平石城の落城の後、後村上天皇は生け捕りにされ、三種神器も取られ、武家一統の世になると思わぬ人はなかったとも、『太平記』は記している。南朝の運命は、もはや風前の灯にみえた。なお室町時代中期に奈良興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん)が大乗院に伝わる代々の古記録を整理して作成した『大乗院日記目録』の延文五年五月八日条には、「赤坂城これを落とす。よって南主(後村上天皇)金剛山に向い、観音寺に御座」と記されている。現存するこの時期の史料では確認されないが、観心寺からさらに観音寺に逃れたのは、事実であろう。金剛山周辺の観音寺といえば、現富田林市甘南備の楠妣(なんび)庵観音寺が想起される。楠妣庵は、楠木正成夫人が出家して一族の菩提をとむらった庵室で、夫人の没後楠木正儀が隣接して千手観音をまつる観音寺を建立し、一族の菩提寺としたと伝えられる。ただし、現在の楠妣庵観音寺は江戸時代の再興で南北朝時代の史料を伝えていないが、後村上天皇が甘南備の観音寺に難をさけていた可能性は高いのではなかろうか。