南朝軍最後の京都回復

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こうして東条の諸城を落城させ南朝を追いつめた幕府軍であったが、足利義詮は、延文五年(正平一五、一三六〇)五月二七日尼崎を立って京都に帰り、諸将もまた京都に引き揚げた。南朝は、あやうく危機を脱したのである。幕府軍がいわばとどめをささずに引き揚げた理由は明確ではないが、義詮は軍事行動と平行して南朝と講和工作を進めており、このさい南朝に恩を売る意味をもっていたのではないかとみる見解がある(『政治史』一、体系日本史叢書)。『太平記』(巻三四)は、「南方ノ退治今ハ是マデゾ」と決断して義詮は帰洛したとして、特に理由は記していないが、その記述の前に、南朝警固の武士の一人が、吉野の後醍醐天皇陵に参籠したところ、夢の中に後醍醐天皇や日野資朝・俊基があらわれ、幕府軍の分裂や抗争が再発することを告げたという説話をおいている。事態はまさにそのように進行する。もちろん東条攻撃につづいておこった事態から、この説話が作られたことは明らかである。

 幕府軍が帰洛してまもなく、以前から仲の悪かった仁木義長と畠山国清の対立が激化、仁木義長が伊勢に逃れ、のち南朝に下った。ところが八月には畠山国清も京都を失脚して鎌倉に下り、ついで鎌倉公方足利基氏からも追討され、畠山氏はいったん滅亡する。はるばる関東の諸豪族を率いて南朝を攻撃したことは、参加した武将たちの反発をかい、結局国清の命取りとなった。細川清氏また将軍家執事の地位にありながら将軍義詮との対立が深まり、康安元年(正平一六、一三六一)七月京都を出奔し、のち南朝に投じた。

 あたかもさきに高師直・師泰が吉野や東条を攻撃した直後から幕府内部の抗争が激化し、観応の擾乱へと展開したのと同じように、この時もまた南朝を追いつめた直後から、以上の有力武将に佐々木道誉・斯波高経(しばたかつね)らを加えた幕府内部の主導権争いが深刻となった。それによって南河内への幕府からの軍事的圧力がなくなって東条の南朝軍は息をふきかえし、幕府内の反主流派が南朝に降伏して南朝軍はあらためて強化された。まさしく歴史は繰り返されたのである。

 観心寺で攻撃の恐怖にさらされてから四カ月後の正平一五年(延文五、一三六〇)九月、はやくも後村上天皇は、住吉神社に移った。南朝は河内から摂津南部まで、勢力を回復していたのである。そして翌正平一六年一二月八日、南朝軍はまたまた京都を占領した。第四度目である。この時の南朝軍には、楠木正儀ら東条の南朝軍と紀伊勢、それに細川清氏、石塔頼房、さらに赤松範実も加わっていた。龍泉城攻略に先陣を争った細川清氏・赤松範実の二人は、こんどは南朝方に属して協力しあっている。

 だが南朝軍四度目の京都回復は、わずか二〇日で終った。たのみの仁木義長は伊勢で敗れ、諸国の南朝軍も上洛できなかったのにひきかえ、幕府軍は急速に態勢をたて直したからである。そしてこの四度目の京都回復が、結局南朝による最後の京都回復となった。

写真62 後村上天皇住吉行宮跡 大阪市住吉区