貞治六年(正平二二、一三六七)足利義詮は政務を義満(よしみつ)にゆずり、まもなく病没した。義満は翌年三代将軍となった。政務をゆずられた時、義満は一〇歳であったが、三九歳の細川頼之(よりゆき)が管領(かんれい)(以前の執事)として将軍を補佐することになった。細川頼之は一族の清氏を破り、領国の讃岐などをまとめて信望があつかった。その頼之が四国から義満補佐のため上洛してきたことを述べて、『太平記』は、「中夏(ちゅうか)(国の中)無為(ぶい)ノ代ニ成テ、目出(めでた)カリシ事共也(どもなり)」と、全四〇巻の筆をおいている。今までたびたび裏切られてきた太平への願いが、細川頼之の登場によっていよいよ実現される見通しとなったのである。
頼之はさっそく精力的に幕府の権威を高め権力をつよめる政策に取り組んでゆくが、応安二年(正平二四、一三六九)一月、対南朝問題で、大たんな政策を実現させた。四条畷の戦いで兄正行が討死して以後、楠木一族の総領となり、常に東条南朝軍の先頭にあった楠木正儀を、将軍義満に降伏させることに成功したのである。
楠木正儀の降伏は、応安二年正月二日の幕府御教書で許可され、二月六日には河内・和泉の幕府方武将らに知らされた。しかし長らく正儀と行動を共にしてきた和田(正武か)、橋本氏らは正儀の降伏に反対で、楠木一族も離反して合戦があった。三月には幕府は摂津守護の赤松光範(みつのり)らを正儀援助にさしむけ、正儀も東条の館を出て天王寺に移り、四月二日には上洛して管領細川頼之に、翌三日には将軍義満に謁した(『花営三代記』『後愚昧記』)。これが正儀の降伏の経過である。
正儀の降伏については、父正成の桜井宿での遺訓を守らなかった親不孝者、裏切者という批難は江戸時代からあるが、桜井宿の遺訓は前述のように事実かどうか不明で、あまりに一面的な、国家主義的な批難である。それに対して、正儀は幕府と南北両朝講和の交渉をすすめてきたが、交渉は失敗に終り、南朝内部の対幕府強硬派から圧迫され、止むなく幕府に降伏したのではないかという見方も明治末年いらいおこなわれており(久米邦武『南北朝時代史』)、より客観的な見方として多くの研究者から支持されている。
講和交渉は、足利義詮の晩年にふたたびもちあがっていた。南朝側は楠木正儀が、幕府側は佐々木道誉が交渉にあたってほぼ妥結し、南朝の勅使が上洛して義詮とも対面した。しかし勅使が持参した後村上天皇綸旨に「降参」の文言があったため義詮は怒り、講和は実現しなかった。貞治六年四月のことである。その後も正儀は代官河野辺(かわのべ)駿河守を上洛させて、さらに交渉を進め、幕府からも使節が南朝をおとずれていた(以上『師守記』)。しかし足利義詮は貞治六年一二月に没し、翌正平二三年三月には後村上天皇も住吉行宮で没してしまった。
幕府と南朝双方の最高権力者があいついで世を去ったことで、講和問題は完全にご破算になったばかりか、南朝のあとをついだ長慶(ちょうけい)天皇は対幕府強硬論者で、楠木正儀は南朝内での支持基盤を失った。この機会をとらえて、細川頼之から楠木正儀への誘いかけがおこなわれたのである。幕府は、正儀を河内および和泉の守護に任じた。正儀は形式上の守護ではなく、応安二年五月には、上仁和寺(現寝屋川市)・禁野(現枚方市)の地下輩が南禅寺材木船に違乱するのを停止する命令を出しているように、ひきつづき河野辺駿河守を守護代に起用して、北河内では守護の権限を行使している(里見忠三郎氏所蔵文書、『大日本史料』六ノ三〇)。
そればかりではない。南河内に対しても、正儀は武力攻撃をおこなったのである。応安六年(文中二)細川頼之の一族で淡路守護の細川氏春(うじはる)が大将となり、摂津守護赤松光範らが加わった幕府軍の南朝攻撃がおこなわれたが、南河内の勝手を知悉している楠木正儀が案内者となった。八月一〇日、天野行宮で合戦があり、正儀の手の者にも討死者が出たが、南朝軍は四条隆俊(たかとし)以下七十余人が討死して敗れた(『後愚昧記』応安六年八月一三日条)。南朝長慶天皇は、住吉で践祚し、いったん吉野に移ったあと、応安二年四月から、天野山金剛寺に移っていた。南河内朝廷の再興である。しかしこの敗戦により、ふたたび吉野に移り、以後南河内に南朝が移ってくることはなかった。