それでも東条の地は、南北両朝の合一まで、幕府軍によって完全に制圧されることはなかった。正儀が南朝に復帰して後、河内の守護には、次章であらためて述べるように、幕府の実力者畠山基国(もとくに)が就任していた。南北朝合一の年である元中九年(明徳三、一三九二)正月、その畠山基国と、楠木正勝(まさかつ)らが、千早城で戦って楠木軍が敗れたと「渡辺系図」は記している(中世五四)。むろん系図の史料としての信頼度は低いが、他に南北朝内乱末期の状勢の一端を伝えるたしかな史料がある。河内長野市日野の観音寺に所蔵される、大般若波罹蜜多経の奥書である(『河内長野市史』五)。この経巻は、至徳三年(元中三、一三八六)から応永八年(一四〇一)にかけて書写されたもので、もと六〇〇巻中四〇〇巻あまりが今に伝えられているが、その奥書には、たとえば次のように記されている(巻六二)。
河州錦部郡日野村のため、沙門これを書す。時に、康応元年己巳六月十九日、嶽山城中橋本律師御陣内に於いて、遊覧の次(ついで)を以てこれを書し了(おわ)んぬ。
施主源朝臣錦部義利
経巻全体の解説は省略するが、康応元年(元中六、一三八九)には「嶽山城」が築かれており、そこには「橋本律師陣」とよばれる陣所があったことが、右の奥書から判明する。巻六二を実際に書写したのは某沙門(僧侶)で、錦部義利は施主、すなわち書写の費用をだした者であるが、「橋本律師陣」に詰めていたのではなかろうか。「遊覧の次を以て」とは具体的にいまひとつはっきりしないが、陣所まででかけて書写したか、あるいは奥書を記したのであろう。
『河内長野市史』第五巻収載の奥書によれば、嶽山城は康応元年から応永七年(一四〇〇)まで、たしかに存在した。場所の明示はないが、「東条嶽山西陣辺」「嶽山城不動堂辺」の文言があり、龍泉寺から西方嶽山一帯であろうか。康応の年号から、幕府方(守護方)が築いた城であることは明白である。「何某陣」と陣所を構えているのは、橋本律師(宗秀(そうしゅう))のほか、数田(かずた)殿、野口(のぐち)殿(藤原友近(ともちか))、彼方(おちかた)殿、与呉(よご)殿、新藤(しんどう)殿、嶋津(しまづ)殿がある。これらは嶽山城衆の有力武将であろう。このうち彼方殿は、苗字から推測すれば、現富田林市彼方に本拠をおく武士ではないかと思われるが、他に史料は伝わらない。なお施主の中には、畠山越前守国政(くにまさ)がいる。守護畠山基国の一族で、嶽山城衆の大将かもしれない。
嶽山城には、史料の上では康応元年から一一年の間、こうして守護畠山基国の武将が詰めていた。嶽山城はのちにあらためて大きな合戦の舞台となることは次章で述べるが、この時は直接には東条の南朝軍を監視する役割をもっていたのであろう。ただし奥書中の「遊覧」の文字からも、きびしい軍事的緊張下にあったとは思われないが、嶽山城を築いて守護畠山基国配下の軍勢が常駐していたことに、南北朝内乱末期の富田林市域はじめ南河内地方の政治や軍事情勢がよく示されているといえよう。