南北両朝の合一

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元中九年(明徳三、一三九二)閏一〇月、南朝後亀山(ごかめやま)天皇は京都に帰り、三種神器は北朝後小松(ごこまつ)天皇に渡されて南北両朝が合一し、さしもの南北朝内乱も、ここに終止符をうった。

 これより先、室町幕府の三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)は、幕府に反抗する有力守護の統率をすすめてきたが、明徳二年(元中八)一二月、当時最大の守護勢力であった山名(やまな)氏をたくみに挑発して、これを破った。この明徳の乱が、有力守護の統率の仕上げとなった。この明徳の乱の勝利を背景に、義満から南朝に両朝の合一を申し入れ、交渉は妥結したのである。

 合一の条件は、一、後亀山天皇から譲国の議をもって三種神器を後小松天皇に譲ること、二、以後の皇位には大覚寺統(南朝)、持明院統(北朝)が交互につくこと、三、諸国国衙領は大覚寺統、皇室領荘園の最大のグループである長講堂領荘園は持明院統の支配とすること、の三カ条であった(近衛家文書)。いわば、南朝の面目を最大限にたてたもの、それだけに北朝の面目を無視したものであった。そして後亀山天皇の帰京には、行幸の儀礼が用いられた。とはいえ供奉の廷臣はわずかに一七名、警固の武士も、楠木党七人、和泉の和田(みきた)氏、ほかに大和の武士ら三二人、計四〇人で、行幸の儀礼は名目だけにすぎなかった(『南山御出立之次第』)。楠木党に東条の武士を中心とするのであろうが、楠木正儀(くすのきまさのり)はすでに没していたと思われ、その後の惣領の名前も楠木党の人々の名前も判明しない。佐備(さび)氏など富田林市域の武士が入っていたかもしれないが、知るよしもない。しかし楠木党はこの時期まで南朝方の立場を守りとおしたことはたしかで、そのため前章で述べた守護方の嶽山城が築かれていたものと思われる。

写真66 足利義満書状写 明徳3年11月13日(近衛家文書)

 零落していた南朝の面目を最大限にたててまで足利義満が南北両朝の合一を実現したのは、ひとつには皇統の象徴である三種神器を南朝から北朝にすんなり譲渡させるため、いまひとつは、幕府内の反主流派が拠り所としてきた南朝を解消するためであったと考えられる。

 内乱の統一過程で、将軍足利義満の官位はしだいに昇進し、それとともに義満自身も公家化をすすめたが、同時に朝廷の政治上の権限もつぎつぎと幕府が吸収し、南北朝内乱末期には、朝廷はもはやほとんど儀式をするだけの機関となっていた。後醍醐(ごだいご)天皇の建武新政は、公家と武家とに二元化されていた政治を、公家の立場から一元化しようとしたものであったが、足利義満は、武家の立場から、公武政治の一元化をめざしたのである。しかし観応擾乱中に再建された北朝には三種神器がなく、その正統性に問題があった。北朝の政治上の実権を吸収してきた足利義満や幕府は、北朝の正統性についての疑問を払拭する必要があったのである。

 いっぽう観応の擾乱の発端に、石川向城(むかいじろ)に入った足利直義(ただよし)が南朝に降伏していらい、将軍に反抗する武将は南朝方になることが多かった。したがって南朝の解消は、将軍に反抗する旗印がなくなることを意味する。南北朝合一の下交渉は、明徳の乱に活躍して和泉・紀伊(現和歌山県)の守護をもかねるようになった大内義弘(おおうちよしひろ)がすすめた。その義弘は、応永六年(一三九九)反乱に転じて堺に籠城し、将軍義満の強引な統一政策の犠牲となった人々にも挙兵をよびかけ、楠木党も呼応しようとした(『応永記』)。もし南朝が存在していたなら、南朝方を旗印とするところであるが、南朝はすでになく、大内義弘のよびかけも稔らなかった。義弘は抗戦三カ月の後討死した(応永の乱)。南北朝合一の政治的・軍事的意義を、皮肉にも合一交渉をすすめた大内義弘が証明してみせたのである。

 このような政治的目的をもった南北朝合一であるから、足利義満は、合一実施のためには手段をえらばず、南朝が同意しやすい条件を出したのであった。こうした中央政治のおもわくによって南北朝合一が実現したことで、元弘の変いらい、日本歴史のいうなれば中心舞台のひとつであった南河内地方の歴史は、大きな転機をむかえた。

 なお、南朝後亀山天皇が京都に帰った後、三種神器は、通常の譲位の儀式を経ることなく、北朝の後小松天皇に引き渡された。後小松天皇の後、南朝の皇胤は皇位につくこともなかった。南北両朝合一の三条件は、当初から守られなかったのである。後亀山天皇も南朝を支持する人々も、これには当然不満で、南大和や伊勢などでたびたび挙兵もおこなわれた。南北朝合一後の南朝天皇と皇胤を後南朝とよぶ。しかし後南朝を支持する人々の活躍にもかかわらず、後南朝は、再浮上することはなかった。

 南河内でも、楠木党の挙兵があった。時代は下るが、永享九年(一四三七)楠木党が城を奪取して立て籠る事件があり、守護の軍兵が攻略して大将を討ち取り、八月三日に捷報が幕府に達した(『薩戒記』同日条)。寛正元年(一四六〇)三月にも、楠木某が捕えられ、京都で斬られる事件があった(『蔭涼軒日録』同年三月二八日条)。しかし両事件とも史料の記述は簡単で、楠木氏の名前すら明らかでなく、南河内の地域史にもなにほどの影響も与えなかったようである。