守護の変質

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南北朝内乱の間に、守護の性格が鎌倉時代の守護とは大きく変り、それぞれの任国を領国として支配するようになっていた。将軍足利義満が有力守護の統率に成功して南北朝内乱を終息させることができた背景には、足利義満自身公家化して官位を高め、朝廷の実権を掌握して権威を強めたこととともに、内乱の経過の中で守護の性格が変質し、領国の支配が安定するとともに、幕府に対する求心力が強まりつつあった政治状況も、大きく影響した。

 鎌倉幕府のもと諸国におかれた守護は、第二章で述べたように、謀叛・殺害人の検断と大番催促という、いわゆる大犯(だいぼん)三カ条を職務とする一種の行政官で、地頭らを支配することは禁じられていた。しかし鎌倉時代の後期には、守護は、任国の地頭ら在地領主を配下に従えようとする傾向が、しだいにあらわれはじめていた。

 南北朝内乱の間に、その傾向はさらにすすんだ。河内守護であった細川顕氏(ほそかわあきうじ)や畠山国清(はたけやまくにきよ)が田代(たしろ)氏や和田氏ら在地領主に軍勢催促状を出していたように、守護は在地領主を動員して内乱を戦った。守護と在地領主との関係は、はじめはたんなる同盟軍であることが多いが、しだいに一種の主従関係が強まることになった。守護は、在地領主を配下に従えることで、任国の支配の強化を目ざすことができる。いっぽう在地領主は、守護に連なることで、より一段と成長する展望がひらける。守護と在地領主との、いわば利害が一致する状況が展開したのである。

 在地領主は、佐備氏や龍泉(りゅうせん)氏など、本拠地の地名を姓とする者が多いように(ただし佐備氏・龍泉氏については、ともにその実体を示す史料は何ら伝わらない)、館などを構えた本拠地をもち、南北朝内乱にはみずからの判断によって主体的に参加することで、より一段の成長を目ざしていた。在地領主の成長とは、農民に対する支配を強めて、年貢をとり得る農民を拡大すること、したがって荘園領主や国衙に入るべき年貢や公事を横取りして、いわゆる荘園を横領したり侵略したりすること、あるいは商品流通や高利貸にも乗り出して利益をあげること、等々である。しかしそのためには、農民や荘園領主らの抵抗や反発をのりこえねばならない。そこで、彼らは種々の方策を模索していた。龍泉城を攻撃したのが土岐桔梗(ときききょう)一揆であったように、在地領主たちが地域的に結集して、一揆や党とよばれる結合体を結成することがあったのも、そのひとつである。在地領主たちは、近傍の者同志が連合して活躍することが多く、河内国など一国の政治・軍事情勢を視野に入れながら行動することが多い。そうしたことによって、南北朝内乱のころから、彼らを「国人(くにうど)」(学術用語としてはこくじん)とよぶ呼称が用いられるようになった。第一章、第二章では、武士や在地領主などの語を用いてきたが、地域に本拠をおき、封建的領主として成長をめざしている武士や地侍のことを、以下すべて国人とよぶこととする。

 内乱の経過の中で、国人たちには、守護と結びつくことが有利となる条件が出現した。守護の権限として、大犯三カ条のほかに、刈田狼藉(かりたろうぜき)、使節遵行(しせつじゅんぎょう)とよばれる権限や半済(はんぜい)が認められたことである。刈田狼藉とは、収穫直前の田の稲を強引に刈り取って盗む乱暴のことであるが、それを取り締まる権限を意味する法律用語でもある。使節遵行とは、国人らによる荘園の横領が幕府に訴えられ、幕府でその返付の裁決がなされると、これを荘園の現地に執行する権限である。刈田狼藉も使節遵行も、守護は実際には配下の国人に行使させることになるが、国人の側からみれば、守護に連なることで、この権限を行使して荘園の現地に入って勢力を拡大する足場をきずき、あるいは敵対する国人と対抗することもできるようになる。いっぽう半済とは、荘園の年貢の半分を守護がとり、それを配下の国人に給付することができる権限である。半済は、はじめ観応の擾乱にさいし、特定の国に対して一年間だけ荘園年貢の半分を兵糧米として徴収することを許可した、足利尊氏のいわば人気取り政策であったが、やがて諸国にひろまって恒常化した。

 さらに、守護が荘園の年貢・公事の徴収を請け負ったり(守護請(しゅごうけ))、寺社の造営費や即位礼の費用などを田地の面積別に課する臨時税(反銭(たんせん))を守護がひろく荘園から徴収したり、守護自身も荘園から人夫役などを徴収したり(守護役(しゅごやく))することなども多くなった。反銭や守護役の徴収には守護配下の国人があたり、守護請も国人が又代官(まただいかん)として荘園にのぞむことになる。