建武三年(延元元、一三三六)足利尊氏(たかうじ)が事実上幕府を再興していらい、幕府方の河内守護は、細川顕氏―高師泰(こうのもろやす)―高師秀(もろひで)―畠山国清―楠木正儀―畠山基国(もとくに)と交替してきたことは、前章で述べた。交替の前後には、南河内の地域史にとっても大きな意味をもつ政治上あるいは軍事上の変化があったわけであるが、各守護の在任期間を一覧表にすると、表2のとおりとなる。そして永徳二年(弘和二、一三八二)楠木正儀がふたたび南朝に帰属したあと畠山基国が守護となり、以後戦国時代末期にいたるまで、その子孫が守護に任じられた。守護は世襲の地位ではなく、代替りなどごとに将軍から任じられるものであり、追放などの処罰もしばしばおこなわれた。とりわけ畠山氏の家督をめぐっては激動の歴史がくり返され、富田林市域でもはげしい合戦が展開することは次節以下で述べるが、ともかく河内守護は、畠山基国以後、畠山氏が継承することとなったのである。
氏名 | 在任期間 |
---|---|
細川顕氏 | 建武3(1336).12―貞和2(1346).11…貞和3.11 |
高師泰 | 貞和3(1347).12―貞和5.5…観応2(1351).2? |
高師秀 | 観応3(1352).7―同年10月→ |
畠山国清 | ←延文4(1359).12―延文5.7→ |
楠木正儀 | 応安2(1369).1…同年5月―永徳1(1381).7… |
…永徳2.閏1ごろ | |
畠山基国 | 永徳2(1382).2―応永13(1406).1 |
注)1.…は在任と推定される期間、← →は前後にのびる可能性がある期間を示す。
2.佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』による。一部補訂。
ここで守護畠山氏の出自や家系などについて、簡単にふれておこう。
畠山氏は武蔵国畠山荘(現埼玉県大里郡川本町畠山付近)を本貫地とし、平安時代に関東に繁栄していた平氏の子孫といわれる名族で、源平合戦に際して畠山重忠(しげただ)がいちはやく源頼朝(よりとも)に味方して活躍した。しかし、重忠の嫡子が平賀朝雅(ひらがともまさ)と争ったことがもととなって元久二年(一二〇五)北条(ほうじょう)氏の軍に攻撃され、平(たいら)姓の畠山氏は、ここにいったん滅亡してしまった。ところが重忠夫人は北条政子(まさこ)、同義時(よしとき)の妹であった。政子と義時は妹の境遇に同情し、足利義兼(よしかね)の子義純(よしずみ)に再嫁させ、畠山の名跡を継がせた。こうして足利氏の一族で源姓の畠山氏が誕生することになった。ただし以上の経過については各種の系図や『鎌倉大草紙』などが伝える伝承以外に確証はないが、大筋はこのようであったかと推測されている(小川信『足利一門守護発展史の研究』)。なお、足利義純に嫁したのは、重忠の娘という説もある(「畠山家記」(『羽曳野資料叢書』1))。
こうして畠山氏は、平安時代いらいの由緒をもつ関東の名族であり、鎌倉時代はじめには足利氏の一族、また執権北条氏の姻族となり、幕府の有力御家人の一人に加えられた。しかし、鎌倉時代の畠山氏については、顕著な事蹟は伝わらない。
ところが南北朝内乱の開幕とともに、畠山国清が和泉・紀伊の、やがて河内の守護となって南朝軍と戦ってから、畠山氏の存在が俄然重みをますことになった。畠山国清は、富田林市域はじめ南河内にもかずかずの足跡をとどめていることは、第三章で述べたところである。だが国清は、貞治元年(正平一七、一三六二)鎌倉公方足利基氏(もとうじ)の討伐をうけたことも第三章で述べた。国清は伊豆で敗れたあと消息不明となるが、和泉に逃れて、応安二年(正平二四、一三六九)に和泉で没したと『河州軍記』は伝えている。
こうして畠山氏はまたまた没落を余儀なくされたが、貞治五年ごろには国清の弟義深(よしふか)が将軍足利義詮(よしあきら)から赦免され、斯波(しば)氏を越前(現福井県)に討って越前守護となり、畠山氏は復活した。義深の赦免についても種々所伝があるが、要は将軍家にとって畠山氏は不可欠な存在となりつつあったことであろう。義深は康暦元年(天授五、一三七九)に没し、あとは嫡子基国がついだ。折から、すでに越中(現富山県)守護に復活していた斯波義将(よしまさ)らが管領細川頼之(よりゆき)を失脚させ、斯波義将が管領となったが、畠山基国と斯波義将とは、守護の任国を入れ替り、基国は越中守護となった。その理由は、斯波氏に由緒が深い越前守護を斯波義将がねらったためかと思われるが、幕府における畠山氏は、まだまだ斯波氏からは一格下の存在だったことをも示している。
だが畠山基国はなかなかの人物で、将軍足利義満の信任もあつく、すでに永和二年(天授二、一三七六)に侍所(さむらいどころ)の頭人に任ぜられた。観応擾乱の一時期を除けば、畠山氏としては、はじめての幕府要職就任である。そして永徳二年(弘和二、一三八二)、楠木正儀がふたたび南朝に帰属したあとをうけて、河内守護をも兼ねることになった。南朝方に対する基国の軍事的・政治的手腕が期待されたものであろう。基国は河内守護就任直後に北河内の土屋次郎に宛てて軍勢催促の書状をだしており(土屋家文書)、また前章で述べたように、康応元年(元中六、一三八九)を史料上の初見に嶽山城を維持して、楠木正儀以下の河内南朝方を軍事的に封じこめ、みごと期待にこたえた。
基国は、さらに明徳二年(元中八、一三九一)ごろまでに能登(現石川県)の守護をかね、同年末の明徳の乱に活躍して直後しばらく山城(現京都府)の守護もかねた。そして応永五年(一三九八)ついに管領(かんれい)に任じられ、足利義満最盛時にあたる応永一二年まで在職し、以後細川・斯波氏とともに畠山氏がこもごも管領となるのが慣例となった。この三家を三管領(略して三管)とよぶが、畠山氏は基国の時代に、足利一族の最有力守護の一員となったのである。基国はさらに応永六年の応永の乱に活躍して、前守護大内氏のあとをうけて紀伊守護をもかねた。以上の守護任国のうち能登だけは畠山氏一族が継職することになったが、河内・越中・紀伊の三国はいずれも畠山氏の家督が基国以後代々守護となった。こうして基国の時代に、以後の室町時代における畠山氏の地位は定まったのである。