守護畠山氏による河内支配は、畠山国清が着手したものの没落によって中絶したあと、畠山基国によって本格的にはじめられた。基国以後の河内守護と守護代は表3のとおりである。
守護氏名 | 在任期間 | 守護代氏名 |
---|---|---|
畠山基国 | 永徳2(1382).2―応永13(1406).1(没) | 遊佐国長 |
畠山満則 | ←応永14(1407).6―応永14.8 | 〃 |
畠山満家 | ←応永15(1408).9―永享5(1433).9(没) | 〃 |
遊佐国盛 | ||
畠山持国 | 永享5(1433).9―永享13.1(失脚) | 〃 |
畠山持永 | 永享13(1441).1―嘉吉1(1441).7(失脚) | 遊佐勘解由左衛門尉 |
畠山持国 | 嘉吉1(1441).8―康正1(1455).3(没) | 西方国賢 |
畠山義就 | 康正1(1455).3―長禄4(1460).9(失脚) | 遊佐国助 |
畠山政長 | 長禄4(1460).9―文正2(1467).1(失脚) | 遊佐長直 |
畠山義就 | 文正2(1467).1―応仁1(1467).5(更迭) | 遊佐就家 |
畠山政長 | 応仁1(1467).5―明応2(1493).4(更迭) | 遊佐長直 |
注)1.←は表示年月以前に任命されていることを示す。
2.今谷明『守護領国支配機構の研究』による。
畠山氏は三管の一人として幕府の中枢を占め、かつ領国が河内のほか紀伊・越中などにわたることから、守護自身は、特別な事情があって領国に下向する以外は、通常は京都にいた。河内守護代も、畠山基国時代の遊佐国長(ゆさくになが)(長護)、畠山満家・持国時代の遊佐国盛(くにもり)(徳盛)はともに越中守護代をも兼ねており、河内守護所に常駐していたわけではない。なお畠山氏の領国河内・越中・紀伊・能登のうちでは河内が、しだいにその中心となってゆく。
河内の守護所は、南北朝時代の中期、守護高師泰の時代には古市にあったが、以後しばらく守護所の所在については史料がなく、下って長禄四年(一四六〇)になって若江(現東大阪市若江南付近)に守護所があることが判明する(『経覚私要鈔』長禄四年九月二三日条)。若江の守護所がいつから設置されたのかはわからないが、あるいは基国いらいかもしれない。若江には長禄以後も引きつづき守護所があるが、戦国時代、次章で述べる畠山氏の家督抗争の時代には、別に高屋城(現羽曳野市古市)にも守護所がおかれた。高屋城の守護所と、高師泰時代の古市の守護所が同一の場所かどうかは不明である。
領国河内の支配にあたって、畠山氏は河内国人の被官化をすすめ、河内の国人またすすんで守護のもとに結集して被官となる者が多かった。明徳三年(一三九二)八月、足利義満が建立した京都相国寺の落慶供養に際し、おりから侍所頭人に再任されていた畠山基国は三〇人の有力被官を率いて警固の大役をはたしたが、その中に門真(かどま)小三郎家村(いえむら)、誉田(こんだ)孫次郎、和田太郎正友の名がみえる(「相国寺供養記」)。門真氏は現門真市域、誉田氏は現羽曳野市域を本拠とする国人である。また和田氏は現堺市域を本拠とする国人ながら、元弘の変いらい南河内でも活躍してきたことは前章で述べた。さらに富田林市域の国人龍泉氏や現河内長野市域と思われるの甲斐庄(かいのしょう)氏も畠山氏の被官として活躍することは、次節以下で述べる。
だが畠山氏は、河内守護代には一貫して河内国人を使用せず、河内の小守護代、各郡代や奉行人としても、河内国人はほとんど登用しなかった。すなわち表3に明らかなように、室町時代の河内守護代は、畠山持国時代の西方国賢(にしかたくにかた)以外はすべて遊佐氏であるが、遊佐氏は出羽国飽海(あくみ)郡(現山形県)遊佐郷を苗字の地とする畠山氏譜代の被官で、畠山氏の領国内には本拠地をもたない。長年にわたり遊佐氏は河内守護代をつとめながら、結局河内に本拠地をもたなかった。西方国賢は津川本畠山系図によれば畠山持国の末弟である(今谷明『守護領国支配機構の研究』)。表3では省略したものの錦部郡の小守護代または郡代が観心寺文書などによって判明するが、畠山基国時代に菱木(ひしき)掃部助盛阿(せいあ)、畠山満家時代に南条入道、畠山持国時代に菱木七郎右衛門入道、ついで猿倉(さるくら)五郎左衛門入道正遵(せいじゅん)、畠山義就時代に近藤四郎右衛門尉、ついで岡田通春(おかだみちはる)、畠山政長時代に南条盛正(もりまさ)が確認される。このうち菱木氏は現堺市域を本拠とし元弘の変いらい活躍しており、岡田氏も現泉南市域を本拠とする国人かと思われる。南条氏・猿倉氏・近藤氏については本拠地を明らかにできないが、河内にはこのような地名はなさそうで、河内国人ではないと思われる。
河内国人の多くを被官としながら、畠山氏はその被官を河内支配の中枢にほとんど登用しなかったわけであるが、このことは他の領国、紀伊や越中にも共通しており、とりわけ守護代は、遊佐氏と、いまひとり遊佐氏と同様譜代の被官で上野国多胡(たこ)郡(現群馬県)辛科郷神保(じんぼ)村を苗字の地とする神保氏が、ほぼ独占していた。ただし誉田氏が山城守護代になったことがあり、また紀伊の国人が越中の小守護代となっている例もあって、畠山氏の他の領国支配の中枢に登用されていることがある。こうした点に、畠山氏による領国支配の特色がみられるようである。