室町幕府は、土地制度については、何ら改革の手を加えることはなかった。政治の上では幕府は、天皇や朝廷の政治的実権の大半を吸収したものの、旧来の制度をそのまま温存したが、天皇・公家や寺社の経済的基盤をなしてきた荘園制についても、原則的にはこれを維持する立場をとった。国人らによる荘園の押領が、荘園領主から幕府に訴訟されると、幕府は横領停止を裁決し、押領地を荘園領主へ還付するよう命じるのが常であった。前項で述べた新しく守護の権限となった使節遵行権とは、この幕府の裁決を荘園現地に執行する権限である。ところが幕府や守護の命をうけて係争地にのりこんだ守護被官の国人が、逆にあらたな押領者となってしまうことが多かった。
いっぽう、鎌倉時代の半ばごろから勢力をつよめてきた名主や作人らも、日照り・水害や虫害など種々の理由を口実に年貢・公事の未進をくりかえすことが多くなった。次に述べる農民の組織の強まりとともに、年貢・公事の減免を要求する闘争も毎年おこなわれるようになった。荘園からの年貢・公事の納入額は、国人らの押領がなくとも、鎌倉時代の半ばごろが最大で、以後漸減するのが一般的な傾向となった。
室町時代と、つづく戦国時代にも、制度上・形式上は荘園制は存続し、荘園制にかわる土地制度は未だ登場しなかった。しかし荘園からの年貢・公事の納付が激減したり、あるいは荘園の名称はあっても年貢・公事納入の実がない、当時の荘園領主がしばしば用いている言葉である「有名無実」の荘園が多くなった。その結果、荘園に関する史料も、激減することになる。富田林市域の荘園については、もともと史料は多くはないが、それでも荘園制がはじまった平安時代中期以降、若干の史料があった。しかし室町時代以降、ついに市史史料編I中世篇には、ただの一通も荘園に関する史料を収戴していない。ページ数が制約されている史料篇に収載し得るほどの顕著な史実を伝える史料が、伝えられていないからである。
しかし、室町時代の市域内荘園に関する史料は、絶無ではない。たとえば宇礼志(うれし)荘については、『三箇院家抄』に、
[河内国(挿入)]宇礼志庄
『二十六』『大乗院』
三十九丁八反半三十六歩
とだけ記されている。『三箇院家抄』とは、室町時代の中・後期奈良興福寺の大乗院門跡であった大僧正尋尊(じんそん)が、応仁・文明のころ(一四七〇~八〇ごろ)、大乗院はじめ関係子院を統括してゆく上に必要な記録類を整理して編纂したもので、寺領荘園についても、大乗院の根本寺領六五荘、その他大和国内の一一四荘、大和国外の三二荘についてそれぞれ朱筆で通し番号をつけて整理している。右の引用の、宇礼志荘の左肩にみえる『二十六』は、大和国外荘の通し番号である。大乗院の根本寺領では、田畠の坪付や年貢・公事の明細などくわしい記録を収載している場合が多い。これらの荘園でも年貢・公事の納付が漸減傾向にあり、時としては皆無になることもあった。その状況を克服し、盛時の荘園の姿をとりもどすことが、尋尊が古今の記録を整理して『三箇院家抄』を編纂した目的のひとつであった。とはいえ荘園の回復は実現すべくもなかったが、『三箇院家抄』にくわしい記録をとどめている荘園は、室町時代中・後期でも、漸減傾向をたどりつつもともかく年貢・公事の納付がおこなわれていたことは、尋尊の別の記録(日記)『大乗院寺社雑事記』にくわしく記されている。ところが宇礼志荘に関する記事は、『大乗院寺社雑事記』にはただの一回も登場しない。おそらく大乗院に対し年貢・公事の納付が途絶えてから年数が久しく、大乗院には、右の引用に記されるように、大乗院領であることと、三九丁余の面積であることを示す記録以外に、何らの記録・史料も伝わってはいなかったものと思われる。宇礼志荘に関しては、第二章で史料として用いたように、弘長三年(一二六三)の所当注文があったはずだが、尋尊の目にふれなかったか、あるいは『三箇院家抄』に収載する意味を認めなかったのであろう。大乗院領宇礼志荘は、『三箇院家抄』の編纂当時、まさしく有名無実の荘園となりはてていたのである。