足力(こぶら)荘も、興福寺寺務方領として、鎌倉時代には若干の史料があった。しかし室町時代ともなると、足力荘は興福寺関係史料には全く登場しない。有名無実どころか、荘名も消失し、荘園としては完全に廃絶していたとみてよかろう。かわって足力郷が、地名表記として登場する。第二章第二節二でとりあげた、応永一八年(一四一一)の作人僧了見の田地寄進状(「金剛寺文書」二四二)がそれで、天野山金剛寺の御影供料として寄進した半二〇歩の田地の所在地は、「河内国錦部郡足力郷之内北峯字栗坪坂上在レ之」と記されている。ただし、足力郷の場合は、必ずしも足力荘から足力郷にかわったとは断定できない。古くから国衙領としての足力郷があったからである。正平九年(文和三、一三五四)の河内国在庁古市憲康(ふるいちのりやす)言上状(中世四五)によると、足力郷は河内国一在庁(国衙の役人)の重代の所領であったが、元弘いらい、錦部□将監に押領されているという。興福寺領足力荘と国衙領とがどのような関係にあったものか、史料はまったく伝わらないが、おそらく足力郷の地域一帯がすべて足力荘であったわけではなく、興福寺領足力荘と国衙領足力郷とは併存していたのであろう。したがって応永一八年の寄進状に記される足力郷の地名は、国衙領である可能性もある。だが、国衙領の足力郷も、元弘いらい押領されていたわけだし、他に関係史料がないことからすれば、足力荘と同様に、国衙領としても廃絶してしまっていたと思われる。とすれば、応永一八年の寄進状に記される足力郷は、興福寺領や国衙領やといった支配関係を含まない地名表記である可能性が高い、といえよう。
足力郷の場合は、関係史料の不足から代表的な例とするわけにはいかないが、荘園が有名無実化し、あるいは廃絶したあとの地名表記は、それまでの何々荘にかわって、何々郷、あるいは何々村と表記されるのが一般である。第三章第二節二の末尾で述べた、南北朝時代末から室町時代初期の嶽山城を伝える日野観音寺蔵大般若波羅蜜多経の奥書には、「河内錦部郡長野庄日野村」と記していることもあるが、「長野庄」をとばして、単に「河内錦部郡日野村」と記していることも多い。長野荘もまた、荘園としては、有名無実となりつつあったのであろう。