惣の発展

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南北朝・室町時代の郷や村は、河内など畿内地方やその周辺部など当時の経済と社会の先進地にあっては、そこに住む農民が自治的な団結をつよめ、自治組織の単位となっていることが多い。荘や村は古代にも荘園制下にもむろん存在したが、郷長や荘官・有力名主らによって権力者から支配される行政単位であり、そこには住民による何の自治も存在しなかった。直接耕作に従事する農民が、名主に隷属しているような状況のもとでは、何の自治もあり得なかったのである。だが、第二章第二節二で述べたように、鎌倉時代の後期ごろから、作人が経済的に成長し、身分的にも作人職が成立して、いわば一軒前の農民として自立をはじめるようになると、農村には、しだいに地域ごとの自治がつよまることになった。

 農村の自治組織は、一般に「惣(そう)」とよばれる。惣は、農業生産に不可欠な用水や、肥料源である山林・荒野の自主管理、荘園領主に対する過酷な年貢・公事の減免交渉や、国人の暴力的支配から農民の生活を守ることなど、要するに生産と生活を農民自身が守ることを重要な機能とし、農民の多数の合議の上に、年寄・乙名(おとな)などとよばれる代表者、年行事・月行事などとよばれる一年あるいは一カ月交替の世話人などによって運営されるのが一般的である。そして神社や寺庵の信仰が惣の団結の紐帯(ちゅうたい)となり、宮座などとよばれる信仰の組織をもち、信仰の組織がそのまま惣の組織であることも多い。惣の単位は、一村(集落)を単位とするもの(惣村)から、数村からなる一荘を単位とするもの(惣荘)など、その地域の状況や荘園支配のあり方によってさまざまであるが、荘園領主に対する年貢・公事の減免闘争、悪党や国人の支配に反対する闘争、あるいは用水や採草地をめぐる隣村・隣荘との争いなど、生産と生活を守るさまざまな闘争が惣の組織をつよめ、それぞれの惣の性格をきめていくこととなる。また、用水管理などで利害が共通するいくつかの惣が連帯して惣連合を結成し、惣連合として共通の信仰をもっていることも多い。惣の概略は以上のとおりであるが、南近畿では紀伊那賀郡の東野(ひがしの)村の惣、鞆淵(ともふち)荘の惣(いずれも現和歌山県那賀郡粉河町)はともに中世の惣の文書多数を惣の人々の尽力によって今に伝えており、惣の実態や歩みをよく示してくれている。

写真71 紀伊国那賀郡東村地下掟 正平20年10月14日(王子神社文書)