富田林市域や南河内には、残念ながらまとまった惣の文書の伝存はない。しかし富田林市域にも、断片的ではあるがたしかに惣の結成がすすんでいたことを示す史料がある。そのひとつは、富田林市宮町三丁目にある下水分社(現喜志宮)の祭礼に際しての「頭役村差帳」(中世七〇)である。この史料は、惣の痕跡を示すにとどまらない、興味ある問題を含んでいるので、ややくわしく検討しよう。
当社は正式には美具久留御魂(みぐくるみたま)神社とよばれ、『延喜式』の式内社に比定される古社で、その創建の由緒に関しては江戸時代いらいいろいろと考証されてきた神社であり、『富田林市史』第一巻に詳しく述べられている。中世の下水分社については、戦国時代末期の史料がややまとまって伝存していて、戦国時代末期ごろの地域にとっても貴重な史料をなしており、次章であらためてとりあげる。それ以外にはこの「頭役村差帳」だけが伝えられている。これに関連する文書や記録は一切伝わらず、しかも「頭役村差帳」は末尾を欠く文書で、内容の正確な解釈は困難である。しかし他の神社の例などと比較検討すれば、「頭役村差帳」は、下水分社にとってばかりでなく、富田林地方の惣についても重要な史料の一であることが判明する。
「頭役村差帳」の冒頭部は、次のように記されている。
下水分御頭訧中之村差帳
応永廿九年壬 刁(寅) 政所殿 御頭代 上物宮へ九膳
卅年 癸卯 衛門九郎 平(半)頭 上物宮へ五膳
卅一年甲辰 次郎 半頭 上物宮へ五膳
卅二年乙巳 左衛門三郎 平(半)頭 上物宮へ五膳
卅三年丙午 与五郎 上黒衆 上物宮へ七膳
卅四年丁未 畑殿 頭代 上物宮へ九膳
すなわち、簡単な題名についで、年号、年、干支、人名、頭代・半頭・上黒衆の別などを記し、応永二九年(一四二二)にはじまり、永正一五年(一五一八)で切れていて、あとを欠失している。ほぼ一〇〇年にわたる記録である。最下段の「上物宮へ九膳」などの記録は、永享八年(一四三六)で終わるが、以後も人名の下に頭代・半頭・上黒衆の区別は必ず記している。このほかに、ごく簡単な注記を記していることもある。なお中世史料の解説では、「逐年書きついだもの」と記したが、もとは書きついだものと思われるものの、現存文書の事跡はすべて同一人のものと認められ、永正一五年以後のいつかの時期に、一巻に整理しなおしたものとみるべきであろう。また、「平頭」と「半頭」とが混在しており、「平頭」の方が多いが、ともに「上物官へ五膳」であることから、「平頭」は「半頭」の誤記と解しておく。
「下水分御頭訧中之村差帳」と記された題名は、じつはきわめて難解である。「訧」の文字はほぼ楷書で書かれていて他に読みようがないが、「訧」はユウ、イと読み、つみ、とがなどの意味で、「頭訧中」は熟語として意味をなさない。何かの文字の宛て字か書き損じかと思われるが、見当がつかない。しかし「頭役」ならば、中世の神社の信仰組織に通常見られる言葉である。また「村差」は「村を指名する」といった意味かと思われる。下水分社の祭礼にさいし、氏子の村々が交替で頭役をつとめてきたが、毎年の頭役の名簿がこれである、とみてよいように思われる。内容もそれにふさわしい。
頭役とは、頭屋などともいい、神社の祭礼などに奉仕する主役のことである。鎌倉時代には、地頭や下司・公文などの荘官がつとめることもあったが、惣の発展とともに、惣の構成員が交替で惣を代表してつとめるようになった。また惣連合として信仰する神社では、各惣が交替で頭役をつとめることもあった。
下水分社の場合も、ここに記された人々は、毎年の祭礼にさいしてみすがらの負担で宮への上物(供物)の膳を用意することを役目とする、頭役の一種であったとみられる。当時の下水分社の祭礼については、次章で述べる戦国時代末期の史料によって、毎年九月におこなわれ、伶人(れいじん)(楽人)も奉仕して神楽(かぐら)が奉納されたらしいことなどが知られ、また伶人の禄物など、神事の必要経費は、神田の収入によってまかなわれている(中世八七)。したがって頭役は、祭礼のすべてを主宰するのではなく、氏子を代表して上物を供えることに、もっとも重要な任務があったものであろう。頭役が奉仕する上物の数量は、右の引用に明らかなように、頭代―九膳、半頭―五膳、上黒衆―七膳、と区別があり、頭代のあと半頭が三年つづき、ついで上黒衆となり、この順番で五年ごとに繰り返している(途中で一部乱れがある)。頭代=九膳の負担について、明応元年(一四九二)に、次のような注記がある。
明応元年 壬子 平石(ひらいし)殿 頭代分 但コノヲリフシ(折節)ハ、彼所領御料所ナリ。御屋形様ヨリ米十四石、両奉行御出候。此米ニテ御供部ノ頭仮屋までおり申候。
明応元年の頭役は、頭代分(九膳)をつとめる平石殿であるが、その時平石殿の所領は御料所(ふつうは幕府の直轄領のこと。この場合は、守護領かもしれない。)となっていたので、御屋形様(守護畠山政長)から米一四石が両奉行を通じて支出され、この米によって頭役を無事つとめた、というのが大意である。ただし末尾の「御供部ノ頭仮屋(祭礼のさいの仮設の施設であろう)までおり候」は、頭役のつとめ方に関する重要な記述であるが、具体的にはよくわからない。それはともかく、この注記によって、頭代=九膳は、明応元年ごろで米一四石の負担であったことが判明する。したがって半頭は七石七斗七升七合余、上黒衆は一〇石八斗八升八合余となる。けっして少なくはない負担である。