右の注記はまた、頭代をつとめた平石殿が、守護と密接な関係をもつ人物であることを示している。平石殿はおそらく平石村(現河南町平石)を本拠とする国人で、守護の被官となっていたものと思われる。頭代をつとめるのは、他に冒頭の政所殿以下、畑殿・和田殿・中村殿があり、いずれも「殿」をつけて記されている。このような記録で殿をつけて記される者は「殿原衆(とのばらしゅう)」などともよばれ、一般農民とは異なる侍身分の者で、国人ないしそれに準じる地侍たちである。政所殿の姓は明らかではないが、支子(きし)荘の政所であろうか。また和田殿は「脇田庄付頭代」と注記されているが、脇田荘の名は、河内にも和泉にも、現存史料にはあらわれない。和田殿は、あるいは和泉和田氏の一族で、富田林市域近辺に土着していたのかもしれない。
守護が経済的に援助する頭役が奉仕する祭礼は、農村の惣の信仰とは関係がない、ともいえ、下水分社が古代いらいの由緒と格式を誇る神社であってみれば、守護も領国支配の上でこれを無視することができなかったものと思われる。ところが五年ごとの頭代以外の半頭・上黒衆には、若干の法師名を除けば、衛門九郎・次郎などと、姓をもたない名前だけが並んでいる。頭代がすべて殿原衆であるのに対して、これらはまさしく農民の名前である。村名を記してはいないが、表題が「村差帳」であることを考えると、それぞれ村の代表であるはずである。あるいは、頭代以下半頭三人と上黒衆までが一村の代表で、五年ごとに各村を廻る慣例が確立しており、政所殿・平石殿などと周知の殿原衆の姓を記すことで、村名は自明のことだったのかもしれない。そのため、「村差帳」とはいいながら、具体的な村名は記されなかったものかと思われる。
いずれにしても、室町時代の下水分社の祭礼には、周辺の村々から交替して頭役を出す慣例が確立していたことを、この「頭役村差帳」は示している。ただし頭役の奉仕には、守護の被官かと思われる殿原衆が守護の援助をうけたことがあり、純粋に周辺村人だけの信仰組織ではなかったようであるが、頭役の選出母体として、それぞれの村に惣が存在をしていたことを、十分に予想してよいように思われる。