水郡宮之次第

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富田林地方における惣の痕跡を示す資料のふたつめは、「河内国錦部郡水郡宮之次第」という題名のもとに記された、水郡宮の中世の造営記録である(中世九六)。水郡宮は、現富田林市甲田にあり、明治末年に錦織神社と改称された。水郡宮の創建の由緒は未詳であるが、社地は律令制下の錦部郡百済郷にあり、古代にはこの付近には渡来人系と推定される錦部氏が居住していた(一巻古代編二章一節)。昭和一〇年(一九三五)の本殿大修築工事中に、本殿地下から、古社殿に使われていたと推定される鎌倉時代の古瓦大獅子口一対、平安時代後期の屋根瓦多数などが出土し、平安時代後期以前に創建されたものであることが確認された(『富田林市誌』)。

 「水郡宮之次第」も、中世の当社についての重要な史料である。この記録は、まずはじめに本社と小宮(摂社)の御神体や祭神を記し、ついで正平一八年(貞治二、一三六三)の社殿造営、永和三年(天授三、一三七七)・永享一一年(一四三九)・寛正六年(一四六五)・永正一二年(一五一五)の屋根葺替などの修復について簡単に記したもので、あるいは後欠かと思われる。現在の文書は、造営、修復のつど書き継がれたものではなく、江戸時代になって通じて一筆で記したものである。中世末に成立していた記録を、江戸時代に書写したものかもしれない。

 「水郡宮之次第」に記された御神体や祭神は、本社御神体薬師如来・牛頭天王、脇阿弥陀如来・天照太神、脇十一面観音・天満宮、小宮は三十八社・蔵王権現・愛宕・夷(えびす)三郎である。中世には、本社には牛頭天王以下三体の神体がまつられていたが、その本地は薬師如来以下の仏であった。中世は神仏習合の時代、神よりも仏が上位におかれた時代で、日本の神は、仏(本地)が仮の姿を現したものと考えられていた。神仏分離がおこなわれた明治以降の神社のあり方とは大きく異なる点である。小宮の祭神も、現在とは異なっている。水郡宮(錦織神社)の信仰は、中世と現在とでは大きな違いがあるわけである。

写真74 錦織神社

 信仰の仕方の変化は、「水郡宮之次第」が記す中世の経過の中でも、大きなものがあった。正平一八年の造営については、「当社造宮勧進聖(かんじんひじり)伏見比丘僧義円(ぎえん)房、神主兼惣長者讃岐守三善貞行(みよしさだゆき)、荒神供(こうじんく)請僧興国山別当法印滝覚房聖瑜(せいゆ)、番匠大工(ばんじょうだいく)三郎太夫藤原景行(かげゆき)、権(ごん)大工藤原有光(ありみつ)、番匠数拾七人工」と関係者の名前が記されている。勧進聖とは、寺社の造営を重要な宗教的実践とする僧侶のことで、ひろく人々の間をまわって造営資金をあつめたはずである。荒神供は、造営の無事成就と、社殿の安泰を祈願する法会であろう。番匠大工とは、いわゆる棟梁(とうりょう)、権大工とはその補佐である。右の関係者の中でもっとも注目されるのは、神主兼惣長者である。神主とはむろん水郡宮に奉仕する神職のことであるが、同時に惣長者をかねていた。おそらく水郡宮のある百済郷の惣長者職をもっていたものと思われる。荘や郷の惣長者職の名称は河内や和泉地方で時々みられるが、中世初期の開発領主の系譜をひく在地領主で荘や郷の鎮守の神社の神主をかねていることが多く、下司職などとならんで在地領主としての所領の中心を占める権限であった(河音能平「畿内在地領主の長者職について」『中世封建社会の首都と農村』所収)。神主兼惣長者と記される三善貞行については他にまったく史料は伝わらないが、百済郷を本拠とする国人である可能性もつよく、三善氏は水郡宮の神主職を握ることによって、百済郷一帯に支配力を強めようとしていたものと思われる。なお三善は氏の名称で、苗字は錦部を名乗っていたのかもしれない(ただし、中世一六に承久の変で活躍した錦織判官代義継の関係史料をあげたが、この錦織氏は近江の出身で、南河内の武士ではない)。なおまたこの時造営された社殿が現社殿の原型と考えられており、重要文化財に指定されている。