それはともかく、惣長者が神主をかねる段階の水郡宮は、三善氏による農民支配の権威のより所であって、惣に結集する農民自身の信仰とは無縁のものといってよく、つづく永和三年(天授三、一三七七)の屋根替の記録でも、「長者三善亀王丸」の名前が記されている。ところが永享一一年(一四三九)の屋根替の記録では、惣長者が消えて「神主紀氏兵庫允元雄(もとお)、宮司源蔵人義勝(よしかつ)」と記されている。南北朝時代に惣長者であった三善氏は、おそらく没落したのであろう。そして寛正六年(一四六五)の屋根替の記録では、「畠山右衛門祐(佐)事之乱後ニ造営也」として、次節で述べる嶽山合戦直後の造営であることを記したあと、次のように人名を列記している。
石川五郎殿 同代官白井二郎左衛門尉殿
新五郎右衛門 九郎市郎右衛門
彼方分 浄者上座 錦部分 次郎太郎大夫
又五郎左衛門 三郎太郎左衛門
二郎三郎大夫 新二郎大夫
増一寺主
塔本分 増空寺主 津々山 与五大夫
京観寺主 源五大夫
徳定寺主
道順
南向(甲)田 五郎四郎右衛門 北向田 又二郎大夫
大夫二郎大夫 勝右衛門四郎大夫
宮村 右衛門五郎大夫
孫五郎大夫
石川五郎殿とその代官は、ともに「殿」をつけて記されており、前に述べた殿原衆で、寛正六年の造営に際し特別の役割を果たしたようであるが、惣長者とは記されておらず、南北朝時代の惣長者三善氏のあとをうけた惣長者ではないように思われる。この石川殿に関しても他に史料はないが、あるいは石川源氏の末孫であろうか。注目されるのは、彼方、錦部、津々山などと地区名を示して、二名から四名の人名を記し、塔本分(水郡宮の神宮寺であろう)以外の地区では二名の僧名の者を除けば、いずれも何々右(左)衛門または大夫の名前であることである。苗字を記さないから、いずれも農民身分の者たちであるが、しかしひらの農民ではなく、それぞれの地区を代表する農民ではなかったかと思われる。衛門あるいは大夫の名前は勝手に名乗るのではなく、一定年齢に達した有力農民が、衛門成(な)り、大夫成りとよばれる儀式をへて村人の承認をうけて名乗る慣例が、惣が発展した畿内地方などにひろくみられる。そして衛門成り、大夫成りの儀式自体、惣の発展と密接に関連する。ここに記された人々は、おそらく各地区の惣の代表者であろう。なお彼方の浄者(音カ)上座、南甲田の道順の二人は、ともに惣の信仰をあつめている村内の寺庵主で、衛門、大夫とならんで惣の代表者となったのではなかろうか。そしてこれらの人々が、惣の構成員から造営費をあつめたのであろう。つづく永正一二年(一五一五)の造営については記録はもっともくわしいものの各村の代表者の記載はないが、彼方村彦五郎大夫と甲田村右衛門四郎大夫が両沙汰人として造営を差配し、「氏子一斗宛」などの勧進をたびたびおこなったことを記している。
寛正六年の造営に際し記されている人名をこのように解釈して大過なければ、水郡宮は、寛正のころには、彼方・錦部・津々山・南北甲田・宮村の惣連合の鎮守として信仰されていたことになる。南北朝時代までの惣長者の権威を示す神社から、周辺の村々の惣の信仰をあつめる神社へと水郡宮は性格をかえたわけであるが、このような神社の性格の変化は、他の地域でもみられることである。
記録の仕方や名前からの類推ではあるが、「水郡宮之次第」もまた、富田林市域の神社信仰のあり方とその変遷を示す貴重な史料であり、寛正のころには周辺の村々に惣が成立していたことを示す有力な手懸りであるように思われる。以上、まことに乏しい史料からの推定ではあるが、富田林市域の村々にも惣の結成がすすんでいたとみてまちがいあるまい。