守藩畠山氏の歴代

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河内などの守護家、そして幕府の三管領の一としての畠山氏の基礎をかためた基国は応永一三年(一四〇六)に没したあと、河内の守護は、表3に示したように、満則(みつのり)、満家(みついえ)、持国(もちくに)とついだ。河内の守護職は畠山氏にとってはもっとも重要な所領であり、代々の畠山氏の家督(惣領)が、河内守護となった。しかし基国のあとをついだ満則は基国の嫡子ではなく、嫡子は満家であった。ところが満家は応永の乱直前に将軍足利義満の怒りにふれた。応永の乱で満家は大内義弘を討ちとる手柄をあげたものの、将軍義満の在生中はついに赦免されず、基国の没後、将軍義満は、河内などの守護を満家の弟満則につがせたのである。そして満則を贔屓(ひいき)にした将軍義満が没したことによって、満家はようやく河内などの守護になることができた。

 畠山満家は、四代将軍足利義持(よしもち)、五代義量(よしかず)、六代義教(よしのり)の初世まで、二度にわたって管領となり、管領でない時も宿老として、室町時代中期の幕府において重きをなした。永享五年(一四三三)満家が病死したあとは、嫡子持国に、畠山氏の家督と河内などの守護職が将軍義教によって安堵された。持国は、永享初年にはじまった大和での合戦に、幕府の命をうけて畠山氏の被官を率いて参戦しており、畠山氏の家督、河内などの守護としての実力も十分であった。ところが永享一三年正月、持国はにわかに将軍義教の勘気をうけて家督を罷免され、庶弟の持永(もちなが)と交替させられてしまった。将軍から罷免されると、持国は失脚する他なく、河内のどこかに身をひそめたようである。

 持国罷免の理由は、持国にとりたてて失態があったわけではない。河内・越中の守護代遊佐国盛の一族遊佐勘解由左衛門尉らが、持永を守護に立てようとして将軍義教にはたらきかけたようであるが、将軍義教は、そうした被官の動きを機会に、有力守護畠山氏の勢力を削減しようとして、家督の交替という弾圧に出たのである。

 義教は、将軍就任いらい、将軍権力の専制化をめざして、数々の弾圧や強硬な政治をおこなってきたが、畠山満家ら将軍就任時の重臣らがあいついで死没したあとは、その傾向はいっそう強まり、有力守護家に対しても、機会をみては次々と弾圧を強めていた。畠山氏も、そうした将軍義教によって、槍玉にあげられたのである。だが将軍義教は、嘉吉元年(一四四一)、持国の家督を交替させた半年後に、畠山氏同様に家督を交替させようとしていた播磨などの守護赤松満祐(あかまつみつすけ)によって、暗殺されてしまった。将軍義教の死によって、畠山持国はふたたび家督と河内などの守護に復活し、逆に失脚した持永は、領国のひとつ越中に逃れたものの殺されてしまった。将軍暗殺とつづく赤松氏討伐の合戦(嘉吉の乱)を境に、幕府政治は急速に弱体化していった。

 以上の守護畠山氏家督の交替の事情は、富田林市域には直接関係のないことであるが、持国のあと畠山氏の家督をめぐって深刻な分裂抗争が生じ、幕府政治のいっそうの弱体化ともあいまって富田林市域で次に述べる嶽山合戦が戦われることとなるので、その前提の説明として述べたしだいである。

 畠山基国から持国まで歴代守護が、富田林市域はもとより、南河内に足をふみ入れた、たしかな証跡はない。しかし観心寺文書や金剛寺文書には、歴代の守護が署判した、守護の領国支配の実態にかかわる重要な文書がのこされている。たとえば、応永一四年幕府は観心寺七郷の地頭職と領家職の半分について、観心寺の要請によって返却することに決したが、この決定は管領斯波義重(よししげ)から守護畠山満則へ、守護から守護代遊佐長護へ、守護代から錦部郡小守護代の菱木盛阿へと伝達されている(「観心寺文書」一六二~一六四)。守護領国制が確立すると、命令を伝達する形式も、このように整備されていた。なお観心寺七郷とは、観心寺荘ともよばれる周辺の諸村である。その地頭職および領家職の半分がなぜ返却されたのか、関係史料がないのでよくわからないが、一種の半済として国人が知行していたのかもしれない。

写真76 河内守護代遊佐長護遵行状 応永14年9月2日(観心寺文書)

 その後永享一〇年には、守護畠山持国が、さきの幕府の決定と、その後の当(とう)知行(実際に知行していること)によって、観心寺領と同七郷地頭職・領家職半分をあらためて安堵しているが(「同」二〇九)、持国はこれとは別に、嘉吉三年には、観心寺荘の下司・公文両職を、祈祷料所として観心寺に寄附している(「同」二一七)。この寄附は、幕府の命令を伝達したものではなく、守護持国として寄附したもので、観心寺荘下司・公文職は守護領であったか、あるいは守護として処分権をもっていたことを示している。これも背後の事情は不明であるが、あるいはもと南朝(ないし南朝方の武士)がもっていたものであろうか。

 いっぽう応永一八年には、畠山満家が、寛治元年(一〇八七)いらい鎌倉時代後期にいたる、観心寺領東坂荘を中心とする重要文書の写一八通一巻の末尾に、「原本は紛失している由であるが、国中の者は皆存知しているので、今後はこの一巻を正文(原本)に準じて、領有の証拠とするように」と記して証判を加えている(「同」四)。河内の政治権力者である満家に対して観心寺から申請し、満家が、文書が正文に準じることの保証をしたわけである。たて前としては、守護は荘園の領有を保証する権力であったことを示している。満家はまた金剛寺に対しても、官宣旨や手継(てつぎ)証文(つぎあわせて一巻とした文書)のとおりに、四至内田畠山野以下の所当官物ならびに国役・臨時雑事(反銭など臨時の課役)を免除し、殺生禁断を命じている(「金剛寺文書」二四一)。こうしたたて前は国人らによって破られるのが常であったが、ともかく以上は観心寺文書・金剛寺文書にみえる、守護畠山満則から満家・持国時代の、地方政治の一端である。