さて、嘉吉の乱によって復活したあと、畠山持国は二度にわたって幕府の管領をつとめ、また守護は、河内をはじめ紀伊・越中のほか、山城と大和の一部宇智郡の守護をもかねるようになった。山城の守護は他の諸国とちがってたびたび交代してきたが、畠山満家の晩年から持国継職の当初畠山氏が守護、ついで一色・赤松・山名氏などがなったあと、宝徳二年(一四五〇)にふたたび畠山持国が守護となった。また大和は鎌倉時代いらい守護は不設置で、国内に多数の荘園をもつ興福寺が、国人を寺僧の末端に組織して守護権を行使してきたが、畠山満家いらい、畠山氏が宇智郡の分郡守護であった。ところで持国にははじめ定まった嫡子がなく、弟の持富(もちとみ)を養子分として、畠山氏の家督を相続させることにしていた。しかし文安五年(一四四八)、石清水八幡宮の社僧になるようきめられていた一二歳になる持国の実子が召しだされて元服し、惣領となり(『経覚私要鈔』文安五年一一月二一日条)、翌年義夏(よしなつ)(のち義就(よしなり)。以下義就とする)を名乗った。義就は、おそらく持国の庶生の子であったと思われる。ついで宝徳二年には、持国から義就への家督譲与について将軍からも承認をうけた。こうして家督の継承も定まった畠山氏は、「近日畠山権勢無双なり」(『大乗院日記目録』宝徳三年九月一日条)といわれる絶頂期を迎えた。
ところが、享徳三年(一四五四)四月三日、畠山氏の家督継承をめぐって、大騒動が勃発した。義就の家督継承に反対して、持富の子弥三郎を立てようとする被官の動きが発覚し、京都の畠山屋形で神保次郎左衛門が切腹させられた。間髪を入れずに持国被官の遊佐国助らが神保越中守の宿所を襲撃、神保父子らは討死し、また弥三郎派の畠山氏被官で越中国人の椎名(しいな)・土肥(どい)氏ら一七人が没落、弥三郎も没落してしまった。なお没落とは、逃走して、所在をくらましてしまうことである。被官の一部に義就の継嗣に反対して弥三郎を立てようとする動きがあったものの、持国・義就からの先制攻撃によって、その動きは未然に弾圧されたのである(『師郷記』同年四月三・五日条ほか)。
弥三郎派がこのまま没落したままであったなら、ことは未遂に終って畠山家督の分裂とはならなかったわけであるが、八月下旬には、弥三郎派がはやくも巻き返しに出た。弥三郎派の軍兵が洛中にあらわれて攻撃にでた。持国はおりから病気中であったが屋形をでて建仁寺に逃れ、義就は遊佐国助や甲斐庄氏らの被官とともに、伊賀に没落してしまった。ちなみに甲斐庄氏は、南河内石川の上流付近の、前に述べた甲斐荘を本拠とする国人と思われる。ただし、本拠地との関係などについてはまったく史料は伝わらないが、これ以後義就派の被官として活躍する。それはともかく、四月の事件の直後弥三郎に対して将軍からも追討命令がだされていたが、義就の没落によってその命令は撤回され、畠山氏の家督継承者として認められた。畠山持国も、弥三郎が家督継承者となることを認めるほかなかった(『康富記』同年八月一九・二一・二二・二八・二九日条ほか)。
ところが、一二月一三日、義就は河内国から五、六〇〇騎もの兵をつれて上洛、入れかわりに弥三郎は没落してしまった(『同』同年一二月一三・二六日条ほか)。
こうして享徳三年四月、八月、一二月と一年のうちに事態は二転、三転し、結局弥三郎は幕府からも追討をうけることになった。翌康正元年(一四五五)持国は病死し、義就ははれて畠山氏の家督をついで河内などの守護となり、幕府の支持もうけて弥三郎派を追求した。しかし弥三郎派の国人たちもねばり強く義就派の攻撃にたえ、弥三郎が長禄三年(一四五九)ごろ病死した後は、その弟政長を擁立した。こうして畠山氏の家督争いはしだいに泥沼化の様相を呈し、富田林市域でもはげしい合戦が戦われ、幕府首脳をまきこんで応仁の乱の大きな原因のひとつとなり、義就派・政長派の争いは、結局、戦国時代末期までつづくことになる。享徳三年は、その畠山氏の家督争いが発火した年となった。