では、守護畠山氏の家督争いは、どうしておこったのであろうか。享徳三年(一四五四)畠山弥三郎擁立の動きが発覚した時、弥三郎は一三歳で、畠山義就よりは五歳の年下であった(『康富記』同年八月二八日条)。一三歳の少年が、みずからすすんで家督をねらい、支持者を集めたとは考えにくい。畠山氏の被官の間に主流・反主流の分裂がおこり、持国から義就への家督継承にさいして、義就が生まれながらの嫡子ではないという問題ぶくみであったことから、反主流派の被官たちが、別の家督継承者を擁立することで主流派を圧倒して主導権をにぎろうとしたのではなかったか、と思われる。弥三郎を擁立しようとした被官の中心は神保氏であるが、神保氏は遊佐氏とともに畠山氏譜代の被官で、内衆の中心をしめてきたことはすでに述べた。しかし河内の守護代は遊佐氏であったように、内衆の中での神保氏の地位は、遊佐氏に比べると少々低かった。だが畠山満家の晩年に神保氏が山城の守護代となっており、このころから神保氏の地位は向上しつつあったようである。とりわけ畠山氏の領国のひとつ越中では、畠山持国が嘉吉の乱で守護として復活したあと、神保氏が二郡の守護代(あるいは小守護代)となり、遊佐氏の地位を陵駕(りょうが)しつつあった。なお越中では、河内とちがって遊佐氏・神保氏とも一族が土着し、国人として成長をめざしていた。その神保氏が、畠山領国内の国人にも同調者を求めながら、守護家の家督継承に乗じて主導権をにぎろうとした。ただし、遊佐・神保氏ともそれぞれ一族内で分裂があって、事態は単純ではないが、弥三郎擁立の企ては、いちおうこのようにみることができる。
守護の領国支配は、前述のように国人を被官として組織することでおこなわれていた。国人たちは、より一段の成長をめざして守護と結びつき、主従関係は比較的ゆるやかであったことも前述した。ところが守護のもとで成長した被官の国人の間には、しだいに利害の対立が生まれて主流・反主流の派閥ができ、反主流派は自派に都合のよい守護の擁立をはかるようになる。こうして家督の分裂と抗争は多くの守護家でみられるようになるが、畠山氏の家督争い、じつは被官の分裂抗争は、それがもっともはやく表面化したものであった。
だが、享徳三年の発火の当初、遊佐氏対神保氏はじめ被官の間に、底流としては対立があったにしても、それほど先鋭化していたようにはみえない。「権威無双」といわれた畠山氏と利害が対立し、あるいは脅威を感じて畠山氏の勢力を削減しようとしていた別の勢力があり、それらが弥三郎擁立の動きを支援した可能性が高いように思われる。