そうした勢力のひとつは、大和の筒井(つつい)氏、とりわけこのころ筒井一族を統率していた成身(じょうしん)院光宣(こうせん)である。大和には武家守護が設置されなかったことは、すでに述べた。大和では、興福寺が事実上の守護で、大和の国人たちは興福寺の衆徒か春日社の神人(国民)に組織されて守護の権限行使にあたっていた。ところで大和には多数の国人が成長し、南北朝合一後も、幕府のたびたびの制止にもかかわらず抗争は止まず、国人の一部は後南朝とも結びついていた。そこで幕府は、衆徒の一人筒井氏に、興福寺造営料所である淀川河上五カ関の代官職を与えて援助し、衆徒・国民を統制させようとした。しかし衆徒の古市(ふるいち)氏や南大和の国民越智(おち)氏らがこれに反発し、衆徒・国民の間に筒井氏と越智氏を領袖とする派閥が形成されていった。
永享元年(一四二九)におこった小さな合戦がきっかけとなって、筒井派と越智派の全面的な抗争が展開、幕府は筒井氏を援助し、永享四年には畠山持国らを南下させて越智氏らを攻撃させ、越智氏らはいったん没落した。しかし越智氏は永享六年には復活、筒井氏はこれを攻撃して敗れ、当主が討死した。永享七年、成身院光宣の要請によって、畠山持国勢以下、大軍の幕府軍がふたたび大和に入った。光宣は筒井氏出身の興福寺の学僧であったが、このころから軍事面での活動を強め、筒井一族と筒井派の中心となり、やがて富田林市域の合戦の場にも登場する。
それはともかく、大和の争乱は泥沼化し、越智派は後南朝の動きとも連動した。永享九年、前述のように河内で楠木党が挙兵したもののたちまち鎮圧されたのは、このような状態の中での事件であった。しかし永享一一年にいたって、越智氏の当主はじめ越智派の主要国人が討たれ、大和の争乱はようやく鎮圧されて、幕府の支援をうけた筒井派が勝利をおさめた。だがそれによる大和の安定は、片時のことにすぎなかった。嘉吉元年(一四四一)将軍足利義教が暗殺されると、越智氏はじめ越智派の有力国人が復活して幕府の安堵をうけ、筒井派に対してまきかえしにでたからである。嘉吉三年、成身院光宣らは古市氏と戦って敗れ、当時光宣がもっていた。河上五カ関の代官職も興福寺の直接支配となり、光宣らは幕府からも治罰をうけて失脚した。文安二年(一四四五)光宣らは古市氏らを破り、幕府の赦免もうけて復活し、河上五カ関の代官職も光宣は回復したが、以後も光宣ら筒井派と越智派とはきびしい対立をつづけた。この越智派の復活を支援したのが畠山持国であった。持国自身も、将軍義教の最晩年には、前述のように失脚しており、義教の横死後に復活したが、越智派は、この持国をたのみとしたのである。
ところでそもそも畠山持国と筒井氏や光宣との関係には、当初から微妙なものがあった。持国は永享年間の大和の争乱にさいし二度にわたって大和に出兵したが、それは筒井氏を支援して越智派を攻撃するためであった。ところが越智派にも筒井派にも、畠山氏の被官がいた。国人たちが他国の守護の被官となるのは、大和には限らず他にも例が多い。一方畠山氏は、満家の時代に大和の西南部宇智郡の分郡守護職を獲得していた。ただし、興福寺は畠山氏の分郡守護を認めなかったが、畠山氏はこれを足がかりに大和にも勢力を拡大することを目ざし、大和国人の被官化をすすめていったのである。永享の大和争乱では、幕府(将軍義教)の命によって畠山持国は大和に出兵し、幕命に従わない越智派を討ったが、その中心には畠山氏の被官もいた。こうして畠山氏の立場が、大和永享の争乱が泥沼化した一因でもあったと思われる。そして嘉吉の乱後、畠山持国は公然と反筒井派の国人を支援しはじめたのである。こうして光宣ら筒井派と畠山持国派とは、直接的にも対立するようになった。宝徳三年(一四五一)には、畠山持国は、光宣が実権をもつ河上五カ関にも干渉し、光宣はこれに反発して興福寺大衆を動員して持国の違乱を幕府に訴え、光宣ら筒井派と畠山持国との対立は決定的となった。こうして光宣と筒井氏にとっては、大和における主導的な立場を維持するためには、どうしても畠山氏の家督継承に深くかかわる必要があった。
もっとも享徳三年(一四五四)に発覚した弥三郎擁立運動に、光宣や筒井氏がどう動いたかはわからないが、享徳四年、持国のあとをついだ畠山義就の弥三郎派攻撃は大和にも及び、光宣と筒井氏はじめ筒井派の有力国人は合戦に打ち負けて没落、幕府からも治罰をうけた。長禄三年(一四五九)弥三郎が病死したあと、その弟政長を擁立した中心は光宣といわれる(『大乗院寺社雑事記』文明元年一〇月二六日条)。当初は畠山氏家督争いの背後にかくれていた光宣は、こうして政長派の中心勢力としておどりでることになる。なお、光宣や筒井氏は、畠山氏とは被官関係は結んでいない。
いっぽう享徳三年四月、義就派の先制攻撃によって没落した弥三郎は、八月にははやくも復活したが、没落したはずの弥三郎や同派の被官人らは、管領細川勝元(かつもと)に庇護されていたといわれ、勝元が弥三郎を扶持したことで、畠山義就はいったん没落を余儀なくされたのであった(『康富記』同年八月一九・二一・二二・二八・二九日条など)。細川勝元はついで政長の擁立も支持し、以後も政長支持で一貫した。細川勝元の行動には、畠山氏の家督を勝元派に継がせ、畠山氏独自の動きを制約し細川氏に従属させようとする意図が明白である。細川氏は、のちには、畠山氏の勢力圏である河内や大和をも併合しようと目ざすようになる。
畠山氏の家督の争いは、こうして、被官の分裂を底流としつつも、畠山氏がふかくかかわった大和の情勢がこれを促進し、さらに畠山氏の弱体化をねらう細川勝元のおもわくにもあおられたものであった、とみるべきであろう。