畠山氏家督分裂の発端は、『新撰長禄寛正記』『応仁記』『河内軍記』など当時の軍記や、『畠山家記』に取り上げられているが、いずれも大きく誤っている。『新撰長禄寛正記』は、次に述べる嶽山合戦をくわしく記し、しかも記述は比較的正確で、嶽山合戦の基本史料の一をなしているが、畠山氏家督分裂の発端については、大要次のように記している。すなわち、畠山持国にははじめ実子がなく、弟持富の子弥三郎政長を猶子(ゆうし)としていた。ところが持国の晩年、妾腹に義就が生れた。政長は人望があり、中でも細川勝元が贔屓(ひいき)にしていたが、持国は実子義就に家督をつがせようとして、享徳三年四月、政長を追いだした。ところが義就は若気のいたりか乱暴な振舞いが多く、家人は義就を離れて政長についたので、同年八月政長・義就の争いになり、持国と義就は没落して、政長は家督に定まった。しかしほどなく逆転して政長は河内へ下り、義就も討手として河内へ下った、と。
この記述は、家督騒動がおこった年月は正しいものの、二重、三重に誤りがある。弥三郎と政長を同一人としていること、弥三郎政長がはじめ持国の家督継承者にきまっていたとしていること、義就が弥三郎・政長より年下としていることなどである。『応仁記』以下の軍記や『畠山家記』も、同じ誤りを犯しているほか、最近の通史の類でも、弥三郎と政長を同一人としている場合があるが、いずれも誤りである。『大乗院寺社雑事記』以下の当時の日記によって、弥三郎と政長とは兄弟で別人であること、弥三郎は義就より五歳年下(したがって政長はさらに年下であるが、生年はわからない)であることは確実である。文正元年(一四六六)の奥書をもつ『新撰長禄寛正記』が弥三郎と政長を同一人とみる誤りを犯したのは、畠山氏家督争いの発端が、当時にあっても複雑怪奇であったからであろう。