さて、畠山弥三郎とこれを支持する大和の成身院光宣や筒井氏らは追放され、畠山義就によって追討をうけていたが、長禄三年(一四五九)にいたって変化があらわれた。まず五月末に光宣と筒井氏ら弥三郎派の大和国人が赦免され、対立する越智氏らに軍事的圧力をかけながら復活した。追放によってどこかへ没落していたのが、それぞれ本拠地へかえりざいたのである。復活にさいし、筒井派には細川勝元の軍勢がそえられたという。これに対して畠山義就も越智派援助のため河内から大和へ軍勢を派遣したが、筒井派の復活を阻止できなかった。
ついで七月二三日には、畠山弥三郎が近く赦免されるだろうと、管領以下諸大名に披露された。ところが不運にも弥三郎は、その直後のころに病死してしまった。だが光宣・筒井氏や弥三郎派の畠山被官たちは、今さら後にはひけない。そこで弥三郎の弟政長を擁立し、細川勝元の支持をとりつけた。
弥三郎の急死によって、義就は失脚をまぬがれたかにみえた。しかし翌長禄四年(寛正元年)五月、義就の軍勢が用水争論から端を発して紀伊根来寺(現和歌山県那賀郡岩出町)の僧兵と戦い、遊佐豊後寺・神保近江入道・木沢山城守ら大身の被官はじめ紀州国人ら七百余人が討死するという大敗をきっした。この敗戦によって、義就のまきかえしはとどめをさされたように思われる。
九月一六日、義就は将軍からにわかに家督を罷免され、代わって政長が家督となった。義就の在京の被官らは反対の陳情をし、当時河内にいた守護代遊佐国助の上洛を待って対処しようとした。反対を通そうとすれば、当然大騒動になる。そこで細川勝元・山名宗全らの軍勢が警備のため京都に召集されたが、結局義就は京都の屋形を出て、河内に下った。先陣は誉田氏、後陣は須屋(すや)・甲斐庄氏以下の楠木党がつとめ、八幡から河内守護所である若江の城に入ったという。
あしかけ五年におよんだ畠山氏の家督と河内などの守護から、畠山義就はこうして失脚し、政長と交替した。とりたてて義就に失敗があったわけでも、政長に功績があったわけでもない。「勘道(当、追放のこと)ニ科(とが)ナク、赦面(免)ニ忠ナシ」と京童は笑ったといわれる(『応仁記』)。将軍義政の無定見な政治のもと、幕府上層部のちょっとしたバランスの動揺から、このような交替劇が生まれ、政情をさらに混迷にみちびくことになる。そして富田林市域も、大きな影響をうけることになったのである(特に注記していない場合の史料は『大乗院寺社雑事記』〔以下『雑事記』と略称する。〕)。