長禄四年(寛正元、一四六〇)閏九月のはじめ、表4に示したように河内をぐるりと包囲する大規模な動員令が発せられ、畠山義就は幕府軍の追討をうけることになった。もっともこれらの軍勢がすぐに出陣してきたわけではなく、結局出陣を確認できない軍勢もあるが、山名宗全や伊勢長野氏らの軍勢はまもなく河内に入っている。
摂津国口 | 管領(細川勝元)勢、淡路勢 |
和泉国口 | 和泉両守護(細川常有・細川持久) |
大和口(横大路ヵ) | 播磨(守護山名宗全)勢、伊勢国人長野氏、大和衆、興福寺衆徒、紀州・河内国人被官中 |
紀州口(紀見峠ヵ) | 幕府奉公衆玉置氏・山本氏(ともに本拠は紀伊)、紀伊国人湯川氏、高野山、根来寺、粉河寺 |
大和宇智郡口(水越峠ヵ) | 伊勢国司(北畠氏)、伊勢国人関氏 |
野崎口 | 伊賀守護(仁木氏)、伊賀国人、近江国人鵜飼氏、望月氏 |
八幡口 | 近江両守護(六角高頼・京極持清)、土岐氏(美濃守護) |
(不明) | 摂津・河内寺社、讃岐・阿波勢 |
注)『大乗院寺社雑事記』長禄4年閏9月5日条。『大阪府史』4参照。
閏九月九日、義就追討の中心となる畠山政長は、筒井氏の出迎えをうけて、まず奈良に下った。幕府の動員令をうけている衆徒・国民の面々も、政長に協力することになった。ただし畠山持国いらい扶持をうけてきた越智氏とその一派は、幕府の動員令に反して、義就に協力することになった。
閏九月一六日、政長は龍田(現奈良県斑鳩町)へ陣を移した。成身院光宣らも同道したが、一〇〇騎ばかりであったとも(『雑事記』同日条)、騎馬二、三〇騎、人三〇〇人ばかりであったとも(『経覚私要鈔』同年閏九月一八日条)いわれる。
閏九月一七日には、義就追討の綸旨(りんじ)が出され、錦の御旗が政長に授けられた。すでに康正元年(一四五五)にも、弥三郎を追討する義就に綸旨と旗が与えられていたといわれる(『新撰長禄寛正記』)。攻守所をかえて、こんどは義就が、たんなる畠山一家の争いではなく、朝敵として追討されることになったのである。
閏九月二八日には、山名宗全が、軍兵を河内に出陣させた(『碧山日録』同日条)。この時点では、義就と山名宗全との連携は成立していなかった。また、宗全と細川勝元との対立はすでにはじまっていたが、いまだそれほど深刻ではなかったわけである。
一〇月九日夜、河内若江から義就勢は二手に分かれて大和に入り、これに越智勢が加わってあわせて三手になって、一〇日早朝、龍田の政長陣を攻撃した。追討軍の軍勢が揃わぬうちに、義就方から先制して反撃に出たのである。ところが、折から光宣は不在であったが、龍田陣にいた筒井勢が奮戦し、義就勢は、もと守護代の遊佐国助以下有力被官はじめ河内・紀伊などの被官ら数百人が討死し、「衛門佐(義就)方大略無きが如し」(『雑事記』同年一〇月一〇日条)といわれる大敗北をきっしてしまった。
合戦の経過は『新撰長禄寛正記』にくわしいが、同書はつづいて、若江城に引きこもっていれば勝利の機会も見出せたものを、義就は「武勇ノ名将ニテ大剛強ノ荒人ナレドモ、血気ニシテ謀(はかりごと)スクナク有ル故ニ」「大ハヤリニハヤリテ逆打シテ加様ニ打負、コトニ不運ノ次第也」と評している。そして討死者の中には、富田林市域の国人と思われる龍見(泉の誤記か)孫左衛門尉や、甲斐庄民部丞、同弟新左衛門尉、古市七郎以下誉田一族、若党ら、富田林市域近傍の国人の名前が記されている。
同書によれば、龍田敗戦のあと義就は、まず西林(琳)寺(現羽曳野市)へ移ったが、大した要害でもないのでその夜に寛弘寺(現河南町)へ移り、ついで供の者どものすすめで嶽山に上った。嶽山は、「誠ニ無双ノ要害ナリ、何程ノ勢ニテモ無二左右一落(おとし)ガタク見エニケリ」という。
いっぽう政長は、同書によれば、一〇月一一日島の城(現奈良県平群町か)へ陣替し、吉日なりとて遊佐新左衛門長直(ながなお)を河内守に任じたという。遊佐長直は、守護政長のもと河内守護代となるが、遊佐氏もまた、一族で義就派と政長派とに分裂していたのである。一〇月一五日には、光宣らも同道して、政長は守護所の若江城に入った。そしてただちに義就の籠る嶽山を攻撃するため、政長は誉田・古市へ移り、二三日には寛弘寺辺に陣替した。
以上『新撰長禄寛正記』が記す経過は、『大乗院寺社雑事記』によってほぼ裏付けされる。龍田の先制攻撃に失敗したあと、義就はこうして獄山に入り、富田林市域が、被官の国人が分裂してもろに戦う両畠山の合戦の舞台となることになった。義就は、当初は追いつめられる形で、嶽山の龍泉寺に入ったものと思われる。しかし政長方や幕府追討軍も、前述の動員令にもかかわらずなかなか軍勢が揃わず、獄山を攻めあぐねた。この間に義就は、獄山と、峯つづきの金胎寺(こんたいじ)山にも城郭を構えた。獄山には南北朝時代末期にも城郭があったことは前述したが、再構築されたのであろう。以後義就の獄山籠城は、日本戦史上でも異例に長い、正味二年半に及ぶことになる。
一二月七日、政長は上弘川(現河南町)につき、先陣は獄山のあたりへ野陣をはった。ところが一二月二七日、嶽山から伊勢国の長野勢(一〇月中旬に河内に出陣していた)を攻めて多数を討死させ、政長方河内衆大方新兵衛・同彦左衛門・花田宗左衛門尉らも討死させた。このため政長方は嶽山周辺の野陣を撤収して、弘川の本陣辺へ集まった(『新撰長禄寛正記』)。
同じ日、政長陣にいた成身院光宣は正月をこすため奈良にひきあげた。政長陣は、「計会(けいかい)中々法に過ぐ(たいへん混乱している、といった意味)」状態であるともいう(『雑事記』)。政長陣の「計会」は、義就方からの反撃によるものであろう(中世五五。なお、特に注記していない場合も、河内関係の史料は、すべて『雑事記』)。