寛正三年の攻防

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畠山義就の追討にあたって幕府は大規模な動員令を発したことは前述したが、寛正二年(一四六一)の暮までに河内の合戦に実際に参加したことを確認できるのは、河内の情勢に直接利害関係をもつ大和の国人のほかには伊勢国の長野衆だけで、山名宗全の手勢は嶽山周辺でどのような合戦をしたのか、史料をとどめていない。幕府の動員令とはいえ、ことは畠山家の内紛であり、守護たちに積極的な出撃意欲はなく、他の守護家の動きを見守って様子をうかがう、といった状態だったのであろう。

 しかし幕府は動員をあきらめたわけではなく、嶽山周辺での合戦が膠着状態に入ったのをみて、寛正二年の後半ごろから、さらに範囲をひろげて出陣の督促を強めた。石見国(現島根県)の国人益田(ますだ)左馬助兼尭(かねたか)に対しても、寛正二年九月一六日付で、早く山名弾正忠是豊(これとよ)(山名宗全の二男)と相談し、すぐに進発するように、との幕府奉行人の奉書が下されているのは、その一例である(益田文書)。

 寛正三年に入ると、幕府による督促の効果があってか、ようやく諸守護の軍勢は河内に到着しはじめた。寛正三年三月八日、久しぶりに政長方から攻勢に出たものの大した戦果もなく引きあげたが(『雑事記』同年三月九月条)、政長方はこのころからようやく活気づきはじめた。そして四月一〇日より、嶽山・金胎寺両城の攻撃がおこなわれた。『新撰長禄寛正記』によれば、両城とも「要害無双ナレバ」、ひるむけはいもなかった。金胎寺城を攻めた和泉衆はさんざんに打ち負け、数知れず討死した。しかし義就は、小勢で両城を保つことはできないと考え、四月一五日に金胎寺城を開城し、嶽山城一手になった、という。ただしこの記述には誤りがある。『大乗院寺社雑事記』によれば金胎寺城の落城は五月一二日で、筒井氏の計略によるといわれ、また山名是豊が甲斐庄谷の方々に放火したという(五月一六日条)。

写真84 金胎寺山遠望 石川川原より東方をのぞむ。

 右の史料で山名是豊が、この時すでに着到していたことも判明するが、これよりさき四月一五日付で幕府は興福寺はじめ諸寺社に「河内凶徒(義就)」追罰の祈祷を命じ、五月はじめにもあらためて諸守護に出陣を督促した(『雑事記』寛正三年四月一七日・五月一六日条)。

 前述の益田兼尭が山名是豊の配下として長野に着陣したのは、寛正三年五月一八日である(『萩藩閥閲録』巻七)。ただし、このことを賞する五月二四日付畠山政長の感状は、書状形式のため年紀はないが、寛正二年にはいまだ出陣していないし、寛正四年にはすでに嶽山合戦は終わっているから、寛正三年とみてまちがいない。同じく山名是豊との配下として、安芸の国人毛利(もうり)少輔太郎豊元(とよもと)も、六月一日か二日に、長野陣に着陣した(『毛利家文書』。このことを賞する幕府奉行人連署奉書と畠山政長感状とで、着陣の日付が異なっている)。なお当時の安芸守護は山名氏ではないが、毛利氏の本拠は石見国境に近く、かつ山名氏は安芸守護だったこともあり、毛利氏は山名氏と同盟関係を結んでいたものであろう。

 六月三日、毛利豊元は、長野から寛弘寺西山へ陣を移した。同じ日、益田兼尭も、寛弘寺上之山へ陣を移した。ついで六月一一日に陣替し、六月一二日、毛利・益田両氏はともに桐山(きりやま)で戦い、益田氏は敵の首をとったものの、一族左京亮が討死し、親類・被官数人が負傷する損害を出した。この軍忠に対して益田兼尭は、畠山政長の感状、および将軍義政からも御内書による感状と、褒美として正恒作の太刀一腰を頂戴している。毛利氏では敵の首をとることも、味方討死もなく、軍忠は益田氏より軽いが、政長の感状と幕府奉行奉書による感状をうけている(『毛利家文書』『萩藩閥閲録』巻七)。なお桐山の戦いには、益田氏とともに石見国人の三隅(みすみ)氏も参加している(『萩藩閥閲録』巻七)。

写真83 現在の寛弘寺 河南町

 ついで七月一六日には、益田氏は嶽山山麓で戦い、親類・被官人数人が負傷した。八月一六日、益田氏・毛利氏はともに淀子(よどし)(現千早赤阪村吉年)で戦い、ともに被官人数人が負傷した。淀子の合戦には、石見の国人都野(つの)次郎左衛門尉も山名是豊配下として参戦し、同じく被官人数人が負傷した。八月二八日には、嶽山城の搦手で合戦があり、益田氏・毛利氏ともに参戦した。場所は三本松とも記されているが、現在地は未詳である。この時は激戦であったとみえて、益田兼尭自身も負傷、被官の大谷兵庫助ほか数人が討死し、この合戦の後にも、益田兼尭は将軍義政から友成作の大刀一腰と青毛の馬一疋を頂戴している(『毛利家文書』『萩藩閥閲録』巻七)。

 七月一六日以降の合戦も、益田氏・毛利氏らが伝えている畠山政長、将軍義政の感状や関連文書などによって判明する(同上)。なお、以上の合戦を示す益田氏や毛利氏の軍忠状などには、八月二八日の戦い以外は年紀がなく、従来寛正二年または四年と比定されているが、前述の理由から、いずれも寛正三年と比定すべきである。

 『新撰長禄寛正記』は金胎寺城落城以後の情勢については、「寄手嶽山ヲ三方ヨリ取巻(とりまき)、入替(いれかわり)々々攻ル」と記すだけであるが、山名是豊に属した益田氏・毛利氏らがのこした文書によって、その一端が知られるわけである。山名是豊勢の合戦がこの調子であることからすると、「入替々々攻ル」は過大な表現ではなく、寛正三年の夏から秋にかけては、かなりはげしい攻防戦が戦われたといえよう。富田林市域の人々は、それによって多大の影響をうけたはずだが、とくに史料はのこされていない。

 ところでこのように猛攻をうけても嶽山城が耐えたのは、攻撃は三方からだけであり、南方は越智備中守の城で、紀伊との通路を確保していたからだ、と『新撰長禄寛正記』は記している。