嶽山城の落城

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寛正四年(一四六三)四月六日には、赤坂で合戦があった。毛利氏・益田氏のほか同じく山名是豊配下の出羽氏が、感状などの関係史料をのこしている(『毛利家文書』『萩藩閥閲録』巻七、巻四三)。

 ところがこれより先三月一四日に、成身院光宣の計略で国見山に陣取って嶽山城南の口を封鎖することに成功していた、と『新撰長禄寛正記』は記している。するとたちまちに兵粮がつきて、籠城ができなくなった。畠山義就は嶽山城を捨てて没落するほかなかった。義就が嶽山城から没落したのは、四月一五日の夕刻である。政長方からの注進は、幕府にも奈良にも、四月一六日にとどいている。こうして約二年六カ月に及んだ畠山義就の嶽山籠城は、義就の没落によって幕をひいた(中世五九)。

 畠山義就は、紀見峠をこえて紀伊に逃れた。これを追って毛利氏・益田氏らも紀伊に進攻した。義就は結局、吉野の奥に逃れた。しかし義就方の河内国人甲斐庄・和田・塩川氏らが河内へ立ち帰るとの噂があり、畠山政長のいる若江城は防備に不安があった。そこで政長から管領細川勝元に要請してあらためて越智弾正忠(家栄)を大将とする大和衆に若江城を防衛させることとなった、と『新撰長禄寛正記』は記し、そのことを伝える筒井・十市氏宛の細川勝元の書状も引用されている。だが筒井・十市氏は政長派であるのに対して、越智氏は前述のように熱心な義就派であるから、越智氏を若江城に招いたとするのは、同書の誤りである。もっとも、細川勝元は義就が没落した情勢の中で、越智氏を懐柔し、もって政長を支援しようとしたとも考えられるが、越智氏が政長のいる若江城に出張したことは確認できず、逆に没落中の義就を扶持しつづけることは次項で述べる。

 義就派の河内国人は紀伊から河内に帰ったかもしれないが、若江城がすぐに攻撃されることはなかった。同年六月、政長は天野山金剛寺と金胎寺との土地をめぐる争いを裁許し、ついで金剛寺に対して、四至内田畠・山野以下の所当官物ならびに臨時雑役を免除し、殺生禁断を命じ、守護代遊佐長直によって遵行されている(「金剛寺文書」二五七・二五八)。これが、現存史料による限り、政長の河内守護としての初仕事である。嶽山合戦の間は、領国統治どころではなかったのであろう。

写真85 河内守護畠山政長安堵状 寛正4年6月20日(金剛寺文書)

 獄山城の落城によって河内の平和は回復し、政長による領国統治は安定したかにみえた。政長は翌寛正六年の正月には上洛し、九月には細川勝元に代わって管領に就任した。義就の反対派を支持してきた細川勝元は、ようやく目的を達したのである。だが、こうしてむかえた平和と安定は、片時のことにすぎなかった。