二年半におよんだ嶽山の合戦は、寛正四年(一四六三)四月、結局籠城していた畠山義就が敗れ、紀伊へ逃れたことを以て終った。義就はついで吉野の奥へ逃れたが、その年末一二月二四日には、はやくも将軍から赦免されるか、との噂が流れた。これまで何度も追放と赦免とをくり返してきたように、嶽山合戦で義就は朝敵として追討されたにしても、幕府内のちょっとした変化で、いつでも赦免される可能性があった。そして、没落中の義就に、大和の越智氏がずい分と扶持を加え、「朝夕」(朝夕の食糧など生活必需品)も越智氏から送ったといわれる(『雑事記』文明元年一〇月二六日条)。義就の復活は本人自身の熱望でもあるが、同時に義就の被官らも、畠山政長被官らの国人と対抗するため、熱望しているところであった。
寛正四年末の義就赦免は実現しなかったが、こえて寛正六年八月三日には、義就は吉野の天河へ打って出、これによって大和の筒井氏らが迷惑するかと観測された。義就はいずれ天河辺にいたはずだが、近々攻勢に転じるかもしれぬという情勢が伝わったのであろう。
翌文正元年(一四六六)八月二五日、義就はついに吉野から南大和の壺坂寺に軍をすすめた。幕府内部で混乱がおきているので、形勢を観望するためかと観測された。折から京都では、畠山氏とならぶ管領家斯波氏でも義敏(よしとし)と義廉(よしかど)との家督争いが激化し、さらに将軍家にも、義政の弟義視(よしみ)と義政の実子義尚(よしひさ)との間に将軍継嗣をめぐる争いが深刻化し、幕府の政情も、京都の世相も騒然となりつつあった。そうした中で、細川勝元と山名宗全を領袖として形成されてきた派閥の対立が、いよいよぬきさしならぬものになった。
義就が壺坂寺まで出頭してきたのをみて、八月二八日幕府は、先の嶽山合戦にさいして出した義就追討の命令が今に有効であることを確認した上で、大和の国人らに、畠山政長に協力して追討するよう命じた。しかし義就は、九月二日河内に入り、「升形城」を攻め落した。『経覚私要鈔』には、「升形城」は、「押子形城」と記され、義就はまず金胎寺に入り、ついで「押子形城」に向かって、二日二晩の激戦ののち攻略したという。「升形城」「押子形城」はよくわからないが、おそらく烏帽子形(えぼしがた)城(現河内長野市)のことであろう。烏帽子形城は、石川と天見川の合流点付近にあり、源平合戦いらい軍事上の要地であった。
九月三日、政長方の河内守護代遊佐長直が京都から若江城に下り、義就攻撃にむかった。しかし義就はこれを打ち破って、九月一七日、嶽山城と深田城(所在地未詳)を攻略した。義就はいよいよ勝に乗り、大和にも進出した。こうして事実上義就は復活して南河内を制圧し、大和の一部にも勢力をはることになった。
九月二七日、成身院光宣は、細川勝元や畠山政長と対策を相談するため上洛した。その結果、政長はじめ諸守護勢が、またまた出陣してくるか、との観測もあった。この間義就は、いまだ将軍から赦免されてはいなかったが、義就には、強力な援軍があらわれた。山名宗全である。宗全は、先年の嶽山の籠城戦における義就の戦いぶりを伝え聞いて、「弓矢取テ当代ノ比類ナシ」と感心し、義就また諸家の軍勢と戦ってみて山名勢ほどの勇猛な軍勢はなく、是非とも一味したいものだと願ったという(『応仁記』)。嶽山合戦の当初は、山名宗全の軍勢も嶽山攻撃に参加したことは前に述べた。この段階にいたって、政長を支持する細川勝元と対決を目ざす山名宗全は、政長のライバル義就を、みずからの陣営に引き入れたのであった(注記した以外の史料はすべて『雑事記』)。