文正元年(一四六六)一二月二四日、畠山義就は河内を出発して上洛し、翌日京都についた。山名宗全の働きかけによって、義就の赦免が実現したからである。『応仁記』によれば、山名宗全は将軍義政夫人の日野富子(ひのとみこ)を通じて義就の赦免を工作したといわれ、また義就は「一騎当千ノ士卒五千余騎」を率いて上洛したといわれる。この中には、誉田氏・甲斐庄氏ら義就方の富田林市域近傍の国人も入っていた。
あけて応仁元年(一四六七)正月二日、義就は将軍義政に謁し、畠山氏の家督と、河内・紀伊・越中の守護を、政長に替って安堵された。正月八日には、幕府の管領も、政長から山名宗全派の斯波義兼に交替した。畠山・斯波氏とも家督は宗全派に交替し、幕府の中枢も宗全派がにぎった。山名宗全によるあざやかなクーデターの成功であった。細川勝元はだしぬかれ、畠山政長は失脚したのである。
政長と被官たちは、屋形の武備を固め、義就に屋形を引渡すことを拒否しようとした。被官たちはたびたび京都市中に放火・略奪をおこなって、兵糧を調達した(『後法興院政家記』応仁元年正月九日条)。細川勝元は政長を援助しようとしたが、またしても山名宗全にだしぬかれ、将軍の命によって政長援助を禁止されてしまった。
正月一八日、政長は屋形を焼いて、幕府にほど近い上御霊社(現京都市上京区)に布陣し、合戦によって義就に打ち勝とうとした。しかし政長が期待した細川勝元方の援助はなく、激戦の末政長は敗れ、没落してしまった。合戦では、義就方誉田・甲斐庄氏は、「鬼神の如き」働きをしたといわれる(『経覚私要鈔』同年正月二一日条)。
応仁元年正月はじめのクーデターにつづく上御霊社の両畠山の合戦は、こうして山名宗全派の圧勝に終ったが、敗れた細川勝元は、やがてみずからの領国の被官をはじめ細川派の守護たちの軍勢を京都に召集しはじめた。畠山政長は上御霊社の敗戦のあとどこかへ没落していたが、まもなく細川勝元の陣営に加わり、被官らも馳せ集ってきた。細川派の軍勢が京都に集結するのをみて、山名宗全派も軍勢を京都に集めた。こうして応仁元年五月二六日、細川方から山名方に攻撃をしかけ、応仁大乱の火ぶたがきって落とされた。
応仁の乱の原因は決して単純ではないが、大まかにいえば、室町幕府と将軍の権威がしだいに低下し、幕府政治が弱体化してきたなかで、畠山家の家督の争いと被官の分裂抗争をはじめ斯波家などにも分裂がはじまり、将軍家にも継嗣争いがおこり、これらの分裂抗争が細川勝元・山名宗全をそれぞれ領袖とする二大派閥に集約され、京都を中心舞台に、両派が全面衝突するにいたったのである。開戦の当初から、細川勝元方は東軍、山名宗全方は西軍とよばれるが、開戦当初の軍勢は東軍は計一六万一五〇〇余騎、西軍は一一万六〇〇〇余騎といわれる(『応仁記』)。もっともその大半は応仁の乱から活躍が顕著となった足軽であるが、京都に集まった多数の守護や国人は、たんに動員されて集まったのではなくて、それぞれに戦いの目的をもっていた。畠山義就と誉田・甲斐庄氏ら河内国人は、畠山政長と政長派の被官・国人を打倒することが目的であり、同様に成身院光宣はじめ大和の国人勢力も、政長派は東軍、義就派は西軍に属して京都の合戦にも参加した。畠山両派の争いからみれば応仁の乱は嶽山合戦の再戦であったし、享徳三年(一四五四)にはじまった畠山両派の争いが、次第に拡大したのが応仁の乱であったのである。畠山義就の家督継承に反対して、弥三郎、ついで政長を擁立し細川勝元の支援をとりつけた黒幕に光宣がいることは前述したが、この光宣こそ、応仁の乱をひきおこした中心人物だと大乗院尋尊は評している(『維事記』文明元年一〇月二六日条)。大和や河内からみれば、応仁の乱はまさしく光宣を軸として展開したとみてよかろう。しかし応仁の乱は、嶽山合戦の再戦でありながら、河内や大和ではなく、京都で戦われたことに、大きな特徴があった。合戦に参加した守護や国人らはそれぞれに目的をもちながらも、細川・山名両派の全面対決による幕府主導権の争奪として、戦ったのである。
応仁元年五月二六日の全面的な合戦開始直後、将軍義政は、山名・細川両派のどちらを支持するのか、態度を明確にしなかった。しかし六月三日、義政は牙旗(がき)(将軍の居場所に立てる旗)を細川勝元に授け、細川派(東軍)支持を明確にした。山名宗全はこの年正月いらい幕政の主導権をにぎっていたものの、本陣とした山名屋敷は幕府の西方にやや離れていたのに対して、細川屋敷は幕府のすぐ北側にあり、事実上幕府に本陣をすえていたことが、大きなきめ手となった。牙旗が細川勝元に授けられたことで、正月いらいの立場は逆転し、山名派は反幕府の「凶徒」として追討をうける立場になった。