畠山義就も、西軍が「凶徒」となったことでまたまた失脚し、畠山政長が、家督と河内などの守護に復活した。しかし義就・政長本人はもとより、有力被官はじめ多数の被官が京都に出て合戦の最中であり、今回の守護の交替は、河内にはすぐには何の影響もおよぼさなかったようである。応仁元年(一四六七)六月半ば、前年から紀伊にいた義就の猶子次郎政国(まさくに)が河内をへて上洛したが、河内では政長方から何の抵抗もうけず、京都近郊の西岡(現京都府向日市付近)でようやく細川勝元被官の抵抗にあっている(『雑事記』同年六月一九日条)。
南河内に応仁の乱の影響が及んでくるのは、開戦からあしかけ四年目の文明二年(一四七〇)になってからである。京都での合戦は、開戦当初は東軍やや有利にみえたが、応仁元年八月に大内政弘(おおうちまさひろ)が上洛してから西軍がもり返し、一進一退の攻防戦がつづいて京都の大半は焼土となった。ついで戦線は洛外へ、さらに山城一帯へと拡大し、大内政弘が南山城を、畠山義就が西岡地方を占領した。さらに、いわゆる後方攪乱策として、京都に出陣中の守護の領国でも、反対派の動きがおこりはじめた。このような状況の中で、戦乱は河内にも波及してきたのである。
文明二年八月四日、義就方の誉田・甲斐庄・遊佐氏が京都から下り、これに越智氏ら義就方の大和勢が加わって、河内守護所の若江城と、誉田城を攻撃した。両城とも、守護政長方の手勢が守っていた。しかし政長方の有力被官は京都の戦線にいたはずで、守備軍の名は明らかではない。義就方の攻撃によって「河内大焼」といわれ、玉櫛(たまぐし)(現八尾市)が陥落、若江城の攻略はそれほど時間はかかるまいとの観測もあった。しかし筒井氏ら政長方の大和国人も河内に出陣し、義就方による両城攻略は成功しなかった。大内政弘か、畠山義就自身が出陣しなければ成功するまい、とも観測されており、西軍による本格的な河内占領を目ざす軍事行動ではなく、後方攪乱策程度のものであったようである。なおこの合戦に越智氏の当主家栄が河内に出陣したが、家栄自身は応仁の乱開戦後最初の出陣で、家栄はさらに和泉に進んで和泉守護を目ざすかとの観測もあったが、これも実現しなかった。和泉には南北二人の守護がいるが、ともに細川勝元の一族で、東軍に属していた(『雑事記』同年八月五・一四日条、『経覚私要鈔』同年八月三~六日条)。
文明三年五月一七日には、若江城衆が嶽山城を攻め、これを攻略した。嶽山城衆一〇人、二〇人が、討たれたり、切腹したりしたという。かなりの激戦であった(『経覚私要鈔』同年五月一七日条)。嶽山城は、文正元年(一四六六)九月、復活した畠山義就が占領したことは前述した。以来この時まで、嶽山城は義就方が保持していたのである。守将の名前はわからないが、龍泉氏・甲斐庄氏ゆかりの者であろうか。そして嶽山城周辺は、嶽山合戦の時と同じく、義就の支配下にあり、守護政長の支配の及ばない地域であったとみられるが、政長方によって攻略されたのであった。
嶽山城の陥落ののち、義就方はただちに反撃に出た。五月二二日、甲斐庄氏が、甲一五〇(軽装の足軽ではなく、甲冑をつけた武士)ばかりをつれて京都から奈良近郊の古市についた。甲斐庄氏はそれから河内に入り、さらに和泉に入って二城をおとし、守護代を討死させた。六月二一日には西軍大内氏の軍勢も河内に入り、「河内、泉両国、以ての外騒動」という状態となった。六月二二日には、義就の被官遊佐五郎も北河内に入った。しかし六月二三日、河内若江衆と紀伊根来寺衆ら東軍政長方軍勢が和泉で甲斐庄氏と戦い、甲斐庄兄弟以下ことごとく討死してしまった(『経覚私要鈔』同年五月二二・二三日、六月一七・二四日条)。
義就方遊佐五郎の攻勢に対抗して政長方でも、筒井・十市氏ら大和衆が、七月二〇日北河内に入り、義就方もさらに遊佐越中守や誉田氏らが北河内に入った。しかし結局大衝突はなく、八月には大和衆は引きあげている(『同』七月二〇・二一日、八月一二日条)。
九月二七日、畠山政長は観心寺荘の反銭以下臨時課役ならびに検断を免除し、守護代遊佐長直、小守護代恩賀(おんが)四郎左衛門入道道春(どうしゅん)、錦部郡代南条太郎左衛門尉盛正によって遵行されている(「観心寺文書」二八六~二八八)。嶽山城の占領とつづく義就方の攻勢をかわしたことで、あらためて守護畠山政長の支配が、河内南部にも及んだのである。そして以後しばしらくは義就方の反攻もなく、平穏な状態がつづく。
この間、京都の戦線は完全に膠着状態に入り、また足利義尚(よしひさ)が将軍継嗣に決定されて、京都で対陣する大義名分の一つは解決していた。文明四年正月、山名宗全が東西両軍の講和を提案したが、東軍では赤松政則(あかまつまさのり)が、西軍では畠山義就が反対して講和は実現しなかった。文明五年三月、山名宗全が病没し、その直後にも講和交渉がおこなわれたが、こんどは畠山政長と同義就が反対した。畠山義就・政長は、ともに京都の合戦に勝利することで、家督の争いと被官の分裂抗争に決着をつけようとしていたからである。文明五年五月には細川勝元も没し、家督と派閥の領袖をひきついだ細川政元(まさもと)と山名政豊(まさとよ)との間では、文明六年四月、講和が結ばれた。しかし畠山義就らがひきつづき講和に反対し、停戦は実現しなかった。派閥の領袖にも、将軍(文明五年義尚が九代将軍となった)にも、停戦を実現する力がなかったのである。
文明八年四月一五日、遊佐長直が河内に下った。守護代として一国の政治をみるためであったが、同時に、四月五日に大和で筒井氏の当主順永(じゅんえい)が死去して大和における政長方・義就方のバランスがくずれており、河内・大和方面で政長方の軍事力をテコ入れするためでもあった(『雑事記』同年四月二〇日条)。こうして応仁の乱の後半は、河内でも大きな戦乱はなく、守護畠山政長による河内支配はようやく安定するかにみえた。