文明九年(一四七七)九月二二日、畠山義就(はたけやまよしなり)は、馬に乗った武士二百余騎(三五〇騎ともいう)、具足をつけた兵二千余人といわれる堂々たる隊伍をくんで、山城から河内に入った。隊伍の中には、馬上一九騎からなる甲斐庄(かいのしょう)氏、馬上四二騎からなる誉田(こんだ)氏ら、富田林市域近隣の国人もいた(中世六三)。
畠山義就は、応仁の乱では西軍の一中心となって京都の戦線で活躍し、東軍との講和問題がおこった時もこれに強く反対したことは前章で述べた。その義就が京都の戦線を離れたのは、「没落」と記す公卿の日記もあるが(『長興宿禰記』文明九年九月二二日条)、合戦に打ち負けたからではなく、まったく逆に、河内を軍事占領するためであった。義就が京都を離れる噂はすでに八月はじめごろからあり、義就派の大和国人越智(おち)氏・古市(ふるいち)氏らとも打ち合わせがおこなわれていた。いわば満を持しての河内入部であった。
牧(現枚方市牧野付近)から河内に入った義就の軍勢は、まず、河内守護所で畠山政長(まさなが)方の守護代遊佐長直(ゆさながなお)が籠る若江城(現東大阪市)を攻撃した。大和の国人も、越智・古市氏らは義就方、筒井(つつい)氏らは政長方をそれぞれ支援して、河内に入った。義就の軍勢はついで天王寺に進出して堺の占領を目ざしたが、この攻撃は和田助直(みきたすけなお)らに退けられた。ふたたび河内に引き返した義就勢は、一〇月三日、若江城と誉田城(現羽曳野市)の中間にある戦略上の要地矢生(やお)(現八尾市)に入った。これによって、河内一国を「大略打ち取る」かと観測された。義就勢はついで誉田城を攻め、一〇月七日、城将和田美作守以下三十余人を自害させ、二百余人を没落させて、誉田城を攻略した。和田美作守以下三七の首級は、これみよがしに京都の政長のもとに送られた(『長興宿禰記』同年一〇月七・一一日条)。この間若江城の遊佐長直はなすすべもなく、政長方の大和国人筒井氏は教興寺(現八尾市)から大和へ追い返された。
一〇月九日、義就方大和の国人吐田(はんだ)氏の軍勢によって、嶽山城が攻略された(中世六四)。嶽山城は、前章で述べたように文明三年政長方に占領されていたが、義就方がふたたび奪回したのである。
同じ一〇月九日、義就勢は若江城も攻略した。守護代遊佐長直は天王寺から船に乗って没落してしまった(『大乗院寺社雑事記』〔以下『雑事記』と略称〕文明九年一〇月九日条)。こうして東軍の一中心でもある守護畠山政長の領国河内一国は、わずか二〇日たらずの間に、畠山義就によって占領されてしまったのである。そればかりではない。義就が河内一国を占領したのを見て、大和の政長方国人らはあいついで「自焼没落」してしまった。「自焼没落」とは、合戦もせずに、みずから城を焼いて没落することである。義就の河内入部とともに、幕府はふたたび義就追討の綸旨(りんじ)を奏請し、畠山政長はじめ奈良興福寺、大和の多武峯や、高野山・粉河寺・根来寺の紀伊国諸寺などに、綸旨が下された(『兼顕卿記』文明九年九月二七~二九日条)。しかし「当時名大将なり。敵対すべきはさらに以て覚えざるものなり」(『雑事記』同年八月一四日条)といわれる義就の勢威の前に、綸旨は何の役にもたたなかった。こうして義就はたちまちのうちに河内を占領し、さらに大和一国と山城南部をも制圧してしまったのである。