ところで熱心な主戦論者であった畠山義就が京都を離れたことは、応仁の乱の大きな転機となった。大内政弘(おおうちまさひろ)ら西軍の武将は、あたかも義就の後を追うようにあいついで領国に帰り、西軍が解体してしまった。こうしてさしもの応仁の乱も、終わりを告げた。
応仁の乱の終わりは、形式上は東軍の勝利ではあった。しかし、「天下の事、さらに以て目出たき子細これ無し。(中略)日本国は、ことごとく以て(将軍の)御下知に応ぜざるなり」と『大乗院寺社雑事記』は述べているように(文明九年一二月一〇日条)、将軍と幕府の権威が、さらに低下したことであった。
畠山政長と義就およびそれぞれの被官が東西両軍に分れて京都の戦線で戦ったのは、将軍のためでも、細川勝元(ほそかわかつもと)・山名宗全(やまなそうぜん)のためでもなく、参加した守護や被官の国人が直面している課題の解決にとって、つまり参戦者自身にとって、応仁の乱に勝利し幕府の主導権を握ることが有利である、と考えていたからであった。将軍と幕府の権威は、まだまだ強かったといえる。だが畠山義就が京都に背をむけて河内に下ったことは、象徴的である。義就は、もはや将軍や幕府の権威にすがることなく、みずからの武将としての実力で河内などの支配を目ざしたのである。他の武将たちにとっても、むろん各地域の政治・軍事情勢によって種々の相違はあるが、実力で地方の支配を目ざすという大筋では同じであった。武将たちがそのように動きはじめたことで、応仁の乱は終った。したがって、応仁の乱の終りとは、そのまま戦国時代の開幕を意味したのである。
河内では、畠山義就が圧倒的優勢のうちに軍事占領したため、ただちに動乱の開幕とはならなかった。文明一一年には、義就は奈良からも番匠(ばんじょう)(大工)を呼びよせて高屋城(現羽曳野市)を建設し、一〇月二日正式にここに移った(『雑事記』文明一一年九月一五・二一日、閏九月一七日、一〇月四日条)。高屋城は、以後義就とその子孫の河内支配の拠点となった。
しかしやがて畠山政長が河内の奪回を目ざして軍事行動を開始したことから、河内の戦国動乱ははじまることになる。河内の戦国動乱は、河内一国に限定された動乱ではなく、享徳三年(一四五四)にはじまった守護畠山氏の家督の争いがすでにそうであったように、大和・山城・和泉・紀伊・摂津など周辺諸国の動き、また幕府の管領家で摂津守護の細川氏の動きなどとも密接に関連しながら展開する。富田林市域やその周辺の合戦は、いずれも大きな動きの一環として戦われるわけである。以下戦国動乱の叙述は、市域と周辺の合戦を中心としつつも、河内をめぐる全体的な動きについても、その概略を述べることとする。