文明一四年(一四八二)三月、畠山政長は、河内を占領している畠山義就追討のため、京都を出発した(『長興宿禰記』文明一四年三月八日条)。政長は応仁の乱の終結後幕府の管領に復帰し、また山城守護をもかねていた。政長には、義就が河内に入部した直後から義就追討の綸旨や幕府の奉書が発せられ、義就の河内入部によって自焼没落を余儀なくされた大和の筒井氏ら政長派の国人らからも、政長の出陣に大きな期待を寄せられていた。管領としての面目にかけても、政長自身も河内出陣を急ぎたかったであろう。にもかかわらず政長がただちに出陣にふみきれなかったのは、河内・大和の間に一万はいるといわれた義就方の軍勢に対抗できる軍勢を集め得なかったからであろう(『雑事記』文明九年一〇月一四日条)。
ところが文明一四年にいたって、丹波・摂津の守護でもある細川政元(まさもと)が、政長に協力することになった。摂津の一部天王寺辺が義就に占領されていること、かつは丹波・摂津の被官の中に守護の命を奉じない者が多く、政元自身摂津に出陣する必要があったからであるとされる(『長興宿禰記』文明一四年三月八日条)。こうして畠山政長・細川政元は、数百騎を率いて三月八日京都を立ち、まず山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)まで軍をすすめた。大和の政長派国人の中にも、山崎で政長軍に合流する者もいた。一方義就方高屋城は、大急ぎで堀をほるなど防備を固めた(『雑事記』同年三月五日条)。
しかし、政長・政元軍は山崎に駐留したまま動かず、兵糧の負担にたえかねた大和の国人衆は引きあげてしまった(『同』同年四月五日条)。六月一九日になってようやく政長は茨木(現大阪府茨木市)へ、政元は吹田(現大阪府吹田市)へ軍を進めた(『大乗院日記目録』同年六月一九日条)。政長が軍を進めた意味は大きく、大和生駒郡の義就方国人で義就から一〇〇〇貫文の給分をうけているといわれた鷹山(たかやま)氏が政長方に寝返った。鷹山(現奈良県生駒市)には成身(じょうしん)院順宣(じゅんせん)らが入った。茨木の政長のもとに、ふたたび大和の国人らも集まり、こうして河内進攻態勢がととのったかにみえた(『雑事記』同年六月二〇・二九日、七月一日条)。
ところが七月一六日、細川政元は畠山義就と講和し、ついで京都に引き揚げてしまった。大和の国人越智家栄(いえひで)の斡旋により、義就が摂津の天王寺辺から撤退する代りに、幕府御料所の河内十七箇所(旧茨田郡西部一帯)を義就に引き渡す条件で、講和が成立したのである(『雑事記』同年七月九・一六日、閏七月二七日条ほか)。細川政元は、出陣の当初から義就とは戦わないのではないかとの観測があったが、現実のものとなった。もっともこれによって政元は政長を見すてて義就方に立ったわけではなかったが、一貫して政長を支持してきた細川氏の立場は変化しはじめたことは事実で、細川氏は畠山氏の領国である河内などの制圧を視野に入れはじめたようである。
いっぽう政長は、細川政元が義就と講和したからといって、軍をかえすわけにはいかなかった。大和の政長派国人たちは政長の河内出撃を熱心に望んでいたし、閏七月半ばには、「義就は絶対に赦免しない、さっそく退治して上洛するように」という前将軍足利義政(あしかがよしまさ)の御内書(ごないしょ)(将軍自身の署名でだされる公的内容をもった書状)も、陣中の政長にとどけられていた(『長興宿禰記』同年閏七月一四日条)。