文明一四年(一四八二)閏七月一九日、畠山政長は尼崎から船で和泉の石津に渡った。一三〇余騎であったという。政長はついで八月には堺、平野(現大阪市平野区)をへて、八尾の西に布陣し、若江城の奪回をめざした(『雑事記』文明一四年閏七月二〇日、八月二〇・二七・二九日条ほか)。しかし両軍の大規模な合戦にはならなかった。大和の政長方国人は、政長が河内に入ったのを機会に、さきに自焼没落した本拠地の回復を目ざし、義就派の国人はその対応に追われ、ともに河内に出兵できなかった。義就は紀伊熊野三山や伊勢(現三重県)国司北畠氏の来援を、政長は領国の越中(現富山県)勢や播磨(現兵庫県)守護赤松政則(あかまつまさのり)の上洛を待っていたという(『同』同年九月八日条)。ともに手を廻していたのであろうが、この段階では両軍ともたのみとした援軍は河内に出陣せず、足軽の小ぜりあい以外の合戦はおこらなかったのである。
その間政長は十七箇所に対して一〇カ年間万雑公事(まんぞうくじ)(この場合種々の課役の意味)を免除し、義就もまた実力で支配している河内一国中に対して三年間同じく万雑公事を免除し、また一国徳政をおこなったという(『同』文明一四年九月八日条)。徳政とは、法令によって貸借関係を破棄することである。ともに、領国統治のための人気とり政策を実施したわけである。
前述した文明九年の義就方による嶽山城の奪回以後、この段階では、嶽山城をはじめ南河内では合戦はない。それどころか、三年間の万雑公事免除と一国徳政で、人々は思わぬ恩恵をうけたものと思われる。
ところで筒井氏ら大和の政長方国人の本拠地復活は、成功しなかった。この状勢を見て大和の鷹山氏はまたまた義就方に寝返った(『同』同年一〇月三〇日条)。これを転機に、義就方は生駒をへて政長の領国である山城南部に進撃した。一二月二七日、義就方は政長方の部将遊佐兵庫はじめ南山城の国人が籠る草路(くさじ)城(現京都府綴喜郡精華町)を攻略、翌文明一五年四月には最後まで抵抗していた狛(こま)城(現京都府相楽郡山城町)も攻略して、宇治川以南の南山城を、義就方として大略占領してしまった(『同』文明一四年一二月二七・二九日、文明一五年四月一七日条ほか)。
勢いをかって義就方は、同年八月河内十七箇所を攻め、堤防を切って水攻めにし、十七箇所の下半分は水びたしになった。日本合戦史上最初の水攻めといわれる。十七箇所を守っていた摂津国人(細川被官)三宅(みやけ)・吹田・池田氏は孤立した(『同』文明一五年八月一四・二二・二八日条)。
しかし政長方はなお北河内の犬田城(現枚方市村野)を保っていた。折から政長たのみの越中勢が、椎名(しいな)氏に率いられて到着した。ただし甲冑をつけた武士二〇〇騎に満たない小勢であったが、椎名氏の上洛に力を得た遊佐長直は、越中勢、および大和の国人らも集めて計三〇〇〇の兵力となって、犬田城の後詰のため楠葉辺に布陣した。対して義就方は誉田・甲斐庄氏らのほか大和の国人も集めて計四〇〇〇で、犬田城を攻めることになった。なおこうした合戦の間義就は高屋城を動かず、政長も正覚寺(現大阪市平野区)にすえた本陣にいた(『同』同年九月六・九日条)。
九月一七日犬田城後詰衆と攻め手義就方との合戦があり、椎名氏はじめ数百人が討ち死して政長方は大敗した。遊佐長直も正覚寺へ逃げ帰り、犬田城は落城した(『同』同年九月二〇・二五日条ほか)。政長方の不振をみて、八月末には足利義政の執奏によってあらためて「朝敵」義就追討の綸旨が政長に下され(『後法興院政家記』同年八月二五日条)、義政自身も出陣するかとの噂も流れた。しかし政長方の退勢はどうすることもできなかった。