山城国一揆と河内

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ところが文明一七年(一四八五)七月にいたって、変化がおきた。義就方の「山城国の代官」で、また「大将」であった斎藤彦次郎が、突然に政長方に寝返ったのである(『雑事記』文明一七年七月二六日条)。きっかけは何であったのか、直接の史料はのこされていないが、政長方に属した方が有利になると期待を抱かせるような、情勢の変化があったものであろう。

 一〇月のはじめ、大和の政長方国人筒井・十市(といち)氏らが山城に入り、宇治の奥から打って出た斎藤彦次郎と合流、義就方の小城二、三をおとし、宇治南方に布陣した。斎藤・筒井・十市氏らの兵力は、一五〇〇といわれる。筒井・十市氏らは、文明九年義就の河内入部によって自焼没落を余儀なくされていらい、たびたび本拠地の回復を目ざしたものの成功せず、当時「牢人衆」とよばれていた。その牢人衆が、義就方に対して大挙して攻勢に出るべく、山城に結集したのである。むろん河内陣中の政長と密接な連絡をとってのことで、政長自身も植松(現八尾市)に陣替りして、山城出陣の意志を示した。また、安富(やすとみ)氏ら細川勢も、山城の政長勢に加わった。義就方の占領によって没落した山城の国人も、政長勢に加わったはずである。

 この政長方の結集に対抗すべく、義就方は、河内からは誉田正康(まさやす)・甲斐庄氏ら四人(七人ともいう)の義就被官が、大和からは古市氏が山城に出陣し、南方から政長勢を迎え撃つ形で布陣した。義就方の山城国人は、それぞれ自城に拠った。義就方の当初の兵力は、河内勢七〇〇、古市氏分三〇〇で政長方に対して劣勢なため、やがて越智氏勢や伊賀国衆の増強がなされた。

 こうして南山城の地で、政長方国人と義就方国人との決戦がまさにおこなわれようとした。とりわけ政長方にとっては、本拠地復活のため乾坤一擲の決意をひめているはずであった。ところが、いっこうに戦端が開かれないまま、二カ月がすぎた(以上『雑事記』文明一七年九~一一月条)。

 一二月のはじめにいたって、南山城の農民や国人の間に、両畠山軍を山城から撤退させようとする動きがあらわれた。一二月一一日、南山城の国人と多数の農民が群集して集会をひらき、両畠山軍の山城からの撤退ほか二カ条(あるいは三カ条)の掟(おきて)を定めた。山城国一揆の成立である。そして両畠山軍ときびしく交渉し、一二月一七日には、両畠山軍を撤退させた(『雑事記』同年一二月一一・一七日条ほか)。国一揆は「惣国」とよばれる政治組織を結成し、南山城地域に対する守護の支配を排除して、自治政治をしいた。

 山城国一揆の中心になったのは、三八人(『政覚大僧正記』同年一二月一八日条)あるいは三六人(「大乗院領諸領納帳」)といわれる国人であるが、これらの国人は、大略細川氏に奉公していたといわれる(同上)。国一揆がみごとに成功した背景には、細川政元の影響が色濃くみられる。しかし国一揆を成功させたより根本の力は、応仁の乱いらい南山城の地で断続的につづけられてきた東西両軍、ついで両畠山軍の抗争に生活と生産をおびやかされつづけてきた農民や馬借(馬で物資を運ぶ交通労働者)らが、大規模な、そして長期にわたる両畠山軍の対陣にするどく反発したことであった。二カ月余にわたる両畠山軍の対陣の間に、大きな合戦こそなかったものの、寺社や民家に放火したり押し入ったりしたといわれる(同上)。南山城の農民や馬借は、ついに怒りを爆発させたのである。国人を中心とする一揆であるため国一揆とよばれるが、集会によって定めた掟の内容は、国人の要望ではなく、農民や馬借の要望をいれたものである。三六(八)人の国人の多くは、畠山義就の南山城占領中は没落し、両畠山軍の対陣にさいしては政長方に参加していたとみられる。国一揆成立後は本拠地に帰還したが、それは政長派の国人としてではなく、その性格を棄て、荘園の荘官などとして帰還した。国一揆の成立によって、他国から出陣してきた両畠山軍を撤退させたばかりでなく、山城国中の両畠山軍を解体させたのである。

 山城の対陣がこのような結末で終ったことで、両畠山の抗争はいったん終止符がうたれ、河内にあっても、しばらく合戦が休止することになった。南山城の農民や馬借のたたかいは、河内の情勢にも大きな影響を及ぼしたのであった。