将軍義材の河内親征

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ところが明応二年(一四九三)にいたって、事態は急変した。近江を再征して一応の成果をあげた将軍足利義材は、その勢いをかって畠山基家を討伐し河内を平定するべく、みずから河内に出陣してきたのである。

 出陣に先立って義材は、基家追討の天皇の許可をとった。基家もまた、父義就と同様、朝敵として追討されることになった。明応二年二月一五日、義材は、将軍直属の軍勢をつれて京都を出立し、八幡から河内に入り、二月二四日には長らく畠山政長が本陣としてきた正覚寺に入った。政長・尚順父子はむろんまっさきに参陣、根来寺衆ら紀伊の政長方軍勢もぞくぞく河内に入り、また赤松政則ら近江陣に出陣した大名も河内にむかった。

 大和の筒井氏ら、長らく牢人している政長方国人も河内に入った。一方越智氏・古市氏ら大和の基家方国人は、将軍の河内出陣によって「国中仰天(ぎようてん)」し、立場が逆転、小城はあいついで自焼没落した。河内でも十七箇所・若江城など基家方の諸城で陥落するものがあった(中世六五)。

 三月二日京都の蔭涼軒主のもとに到着した書立(報告書)によれば、河内陣の布陣の状況は、大略次の通りである(『蔭涼軒日録』明応二年三月二日条)。

 (足利義材・畠山政長方)

一、くわんせん寺(たけ山より五〇町西、誉田より三里)根来衆・紀の国衆、勢数四千。一、にしの浦(西浦、現羽曳野市)(誉田より四町)斎藤六郎左衛門尉。一、ゆきのみや(西浦のそば)根来泉識坊、紀国衆三千。一、藤井寺 遊佐河内守長直、勢数三千、そのほか国衆二千。一、こむろ(古室、現藤井寺市) 沢田、武田殿。一、大田(現八尾市) 三宅、勢数五百。一、若林(松原、現八尾市) 畠山播州、神保氏勢数千。一、かんめい(亀井、現八尾市)(誉田へ五〇町)畠山尚順、同京衆。一、正覚寺 足利義材、畠山政長。一、平野 武衛。一、天王寺、同堺南荘(現堺市) 赤松政則。一、岡(現松原市)(誉田より一八町)細川讃州、三吉衆。

 (畠山基家方)

一、国見(現河内長野市) 田い庄。一、誉田 越智家栄(いえひで)、古市澄胤(ちよういん)、箸尾(はしお)、高田、万歳(まんざい)。一、金胎寺(現富田林市) 甲斐庄、江波、井口、かいてきさうまこ次郎

 足利義材・畠山政長は正覚寺に本陣を構え、義材・政長方はその東方、現羽曳野市・藤井寺市・八尾市あたりに布陣、天王寺や堺市付近にも布陣した。政長の守護代遊佐長直は三〇〇〇の軍勢を率い、河内国衆二〇〇〇と合せて藤井寺に布陣している。軍勢で多いのは根来寺衆をはじめとする紀伊勢である。冒頭の「くわんせん寺」は観心寺かとする意見もあるが(『羽曳野市史』四)、観心寺は前述のように熱心な基家方で一合戦なしに観心寺への布陣はあり得ないと思われるし(合戦の記録はない)、かつは観心寺では「たけ山より五十町西」との注記にあわない。現堺市東南方あたりではないかと思われるが、「くわんせん寺」という著名な寺は見当らず、未詳というほかない。

 これに対して基家方は、誉田(高屋城)の本城には越智・古市氏ら大和の国衆が入り、現河内長野市日野の国見城と富田林市域の金胎寺城に守備兵を籠めた。甲斐庄氏は錦部郡を代表する国人で義就方の一中心として活躍してきたが、おそらく金胎寺城守将の大将であろう。右の書立は、将軍方を中心とし、「敵衆」と記す基家方は簡略であるが、嶽山も基家方の要城であったことは、別の史料(明応二年御陣図、福智院文書)によって判明する。また廿山(つづやま)城にも政長方の軍勢が布陣していたことは、後述する。

写真94 明応2年御陣図(福智院文書)

 三月下旬、いよいよ高屋城攻撃の戦端がひらかれた。三月二三日には基家方雪宮城(現八尾市弓削)が落城、ついで高屋城西口付近でも合戦がはじまった。(『雑記事』明応二年三月二五日条、『蔭涼軒日録』同年四月三日条)。嶽山城や金胎寺城でも、緊張が高まったことと思われる。