だが、守護畠山基家の河内支配は、長くはつづかなかった。畠山尚順が、まもなく復活してきたからである。明応二年(一四九三)閏四月、正覚寺の陣からかろうじて脱出した畠山尚順は、紀伊に没落した。紀伊の守護も、畠山政長から基家に代っていた。しかし紀伊では、有力な武力集団である根来寺衆がかつて畠山義就と鋭く対立したこともあって、政長―尚順支持勢力が強く、尚順は没落したとはいえたちまちに紀伊制圧に成功し、七月にははやくも根来寺衆らとともに和泉に進出するほどになっている。明応二年から明応五年にかけて、畠山基家自身もたびたび紀伊に出陣したが、畠山尚順の追討はならなかった。
明応六年にいたって、河内では遊佐氏と誉田氏の、守護代をめぐる対立が表面化した。大和の古市氏が遊佐氏を支持したのに対して越智氏は誉田氏を支持し、基家陣営内部の分裂が明確になった。七月には古市氏が河内に出陣して円明(現柏原市)・駒谷(現羽曳野市)で合戦があり、誉田氏は堺に没落した(『雑事記』明応六年六月一九日、七月二四・二六日条ほか)。
この河内の混乱によって、畠山尚順は河内を回復する機会をつかんだ。九月下旬、まず和泉に入って遊佐氏を支持する毛穴(けな)氏を追い、ついで河内に進んで高屋城を攻撃した。一〇月七日、基家と遊佐氏らは、山城国に没落、代って尚順は高屋城に入った。尚順の河内進出によって、大和でも筒井氏ら没落中の尚順方国人が復活を目ざした(『同』同年九月二五・二八日、一〇月七・八・二四日条ほか)。
しかし基家方もすぐに反撃に出て、一一月一三日には三箇(現大東市)で尚順方を破り、高屋城奪回を目指した(『明応六年記』)。だが同じころ大和で基家方古市氏を大敗させた筒井氏らが河内に入り、紀伊からも新手が加わったため、基家方はふたたび敗れて没落した。一一月二三日には尚順は大和に入り、越智氏を吉野の奥に追放してしまった(『雑事記』明応六年一一月一八・二三日条ほか)。こうして尚順は、明応六年の年末ごろには、守護である畠山基家とその支持勢力を没落させて、河内と大和の制圧に成功したのである。
明応七年八月、基家の嫡子義英(よしひで)が北河内を攻めたが、尚順方に撃退された。この年一二月一二日付で尚順は、金剛寺に対し、寺領の安堵状をだしている(「金剛寺文書」二七三)。この時の尚順は、応仁の乱後の畠山義就と同様、河内を軍事占領している状態で、正式の守護ではないが、金剛寺は尚順を事実上の守護とみて、安堵状の下付を要請したのである。尚順の実力による河内支配は、安定するかにみえたのであろう。
だが皮肉にもその直後の明応八年正月早々、基家方はふたたび反撃に出て、野崎城(現大東市)と嶽山城を奪回した。基家の反撃は、細川政元の意見によるといわれる(『雑事記』明応八年正月二八日条)。嶽山城は、ひきつづいて南河内の要城であった。
しかし尚順方はただちに反撃に出、基家方甲斐庄氏は、いったん嶽山城に引き退いたあと、槇尾寺(現和泉市)で切腹してしまった。甲斐庄氏が、嶽山城を本拠としていた確証はないが、錦部郡の国人である甲斐庄氏と嶽山城とは、縁が深かったことはたしかであろう。正月三〇日には、基家自身も十七箇所で討死してしまった(『同』同年二月二日条)。こうして基家方の反撃は、惨憺(さんたん)たる失敗に終った。なお基家の死後は、嫡子義英が細川政元の強い支持のもとに、没落中であるにかかわらず守護となった。
畠山尚順の河内回復は、前将軍義材(このころ義尹(よしただ)と改名)を勇気づけていた。義材は、明応二年の正覚寺の陣でとらえられたあと京都に幽閉されていたが、脱出に成功して越中に走った。そして京都回復のため、諸大名にさかんに檄を発していたが、明応七年九月には越前(現福井県)に入り、明応八年七月、越前守護朝倉(あさくら)氏とともに、いよいよ入京を目ざした。畠山尚順は、義尹に呼応して、九月五日、河内から摂津に進み、大和の尚順方国人には山城を攻めさせ、ともに京都に向かおうとした。
だが細川政元の被官赤沢朝経(あかざわともつね)(出家して沢蔵軒宗益(たくぞうけんそうえき))らが奮戦して山城の尚順軍を破り、摂津でも尚順軍の進出をとめた。さらに河内では野崎城や十七箇所を、畠山義英らが奪回した(『雑事記』同年九月五・一三・晦日・一〇月四・一四日条ほか)。
一一月一六日に義尹は近江坂本についた。しかしすでに畠山尚順が敗れた後で、あと一歩のところで義尹の京都の回復はならなかった。敗走した義尹は、こんどは周防(現山口県)の大内氏をたよることになる。
一二月二〇日、尚順は天王寺で細川政元の軍勢にも敗れ、ふたたび紀伊に没落した(『後法興院政家記』同年一二月二三日ほか)。尚順の没落によって、河内の諸城は義英方となった。義英は、ようやく守護の面目を施すことになった。
正覚寺の陣の後河内に復活した尚順は、前将軍義尹の京都回復運動という大きな政治の流れの中で細川政元の軍勢に破れ、またまた紀伊に没落したのである。