両畠山の講和

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だが畠山尚順は、翌明応九年(一五〇〇)九月には、はやくも再復活の機会をつかんだ。和泉国の内紛に乗じて、根来寺衆の協力をうけた尚順は和泉に進出し、和泉半国守護細川元有(もとあり)を敗死させた。その勢いをかって尚順は、高屋城を囲んだ。しかし九月一六日の合戦に、尚順方は大敗してしまった。九月二四日には討ち取られた尚順方軍勢の首級が京都に届けられたが、侍名字の者で四二二あったという(『後法興院政家記』明応九年九月二四日条ほか)。尚順は、またまた紀伊に没落した。

 ところで有力守護家ではただ一家家督の争いがなかった細川氏にも、ついに分裂の時代がきた。永正元年(一五〇四)九月、摂津守護代の薬師寺元一(やくしじもとかず)が、細川政元の養子澄元(すみもと)をたてることを名目に、淀城(現京都市伏見区)で挙兵したのである。細川氏の被官の間でも、分裂や争いがなかったわけではないが、細川政元が幕府の実権を握っていることで、被官の争いはそれほど表面化しないできた。しかし赤沢宗益の活躍が、亀裂をいっきに深めることになった。宗益は、前述のように明応八年(一四九九)南山城で尚順方の大和国人を破ったが、宗益は南山城ばかりでなく、大和をもいったん軍事的に制圧してしまった。宗益はこれまでの細川氏被官になかった活躍をみせたのであるが、それもそのはずで、宗益は戦国時代になって新しく細川氏の被官になった者である(森田恭二「細川政元政権と内衆赤沢朝経」(『戦国期公家社会の諸様相』))。ただしそれだけに荘園領主らの反発も強く、宗益はいったん細川政元によって失脚させられたこともあるが、すぐに赦免された。政元は、この宗益を登用することで、山城・大和についで河内の制圧をも視野に入れはじめたようである。その矢先に、薬師寺元一の反乱がおき、宗益も薬師寺元一に同調して政元のもとを離れた。薬師寺元一の反乱はまもなく鎮定されたが、河内に対する細川政元の軍事的圧力は低下した。

 この機をとらえて、尚順はまたまた河内に入り、永正元年一〇月四日、義英方の金胎寺城を攻略した。金胎寺城には、大和の越智衆らが入っていたという(『雑事記』永正元年一〇月四日条)。嶽山城とならんで金胎寺城も、ひきつづき南河内方面の重要城郭であったことが判明する。

写真97 嶽山山頂付近からみた金胎寺山

 だが今回は、尚順と義英の合戦は継続せず、それのみか一二月一七日にいたって、尚順と義英の講和が実現し、尚順は高屋城に、義英は誉田城に入って、河内を分領することになったのである。一二月一八日、一九日には、尚順が誉田城を、義英が高屋城を相互に訪問し、一二月二七日にも両者はかさねて会見して、講和を固めた(『雑事記』永正元年一二月一七・二二・二八日条ほか)。

 どうして両畠山の講和が実現したのか、くわしい経緯については史料が伝わらないが、『室町家御内書案』には、大伝法院(根来寺)三綱中にあてた、次の文言の将軍足利義澄の御内書を収めている。

  畠山両家和与の儀に就いて、忠節を抽(ぬきん)づれば、もっとも神妙たるべく候。なお細川右京(政元)大夫申さるべく候なり。

 将軍から根来寺に講和の斡旋を命じ、なお細川政元が申し伝えるであろう、というのがその内容である。細川政元は、畠山尚順の河内占領を阻止しようとしたものの、折からの内紛で畠山義英を援助できない。そこで将軍と根来寺を動かせて、苦肉の策として講和にもちこんだ、というのが、おそらく真相に近いのであろう。

 だが両畠山氏の講和実現の素地は、別のところにあった。前述のように、細川政元による領国拡大の意図が明確になるにつれて、大和や河内の国人らの間に危機意識が強まり、それまでの対立抗争をやめて大同団結しようという動きがあったことである。

 大和では、前述のように明応八年(一四九九)赤沢宗益に席巻されたあと、筒井・越智氏ら両派に分れて抗争していた三十余名が和睦をし、今後は河内に合力せず、大和の事に専念することを申しあわせた。ただし大和の有力国人で宗益の手先となった古市澄胤は、申しあわせから除外された(『雑事記』明応八年一〇月二六日条)。赤沢宗益の大和進攻が、大和の国人に深刻な打撃を与えてこの申しあわせとなったことは容易に推測される。同時に大和の国人たちは、河内の両畠山氏とも、縁を断とうとしたことも、注目される。大和の国人たちは、しばしば述べてきたように、河内にもたびたび出兵をして、両畠山の抗争を、長年にわたって主体的に戦ってきた。だがその結果として、赤沢宗益―細川政元勢の、大和進攻となったのである。大和国人たちの間に、畠山両派との関係に対する反省が生まれたのは、当然であったし、あくなき抗争をくりかえす畠山氏の権威が大きく低下したことでもあった。

図8 畠山氏略系図 Ⅱ

 右の大和国人の申しあわせは、永正元年にも金胎寺城に越智勢が籠っていたように、すぐには実現しなかった。しかし、河内の遊佐氏ら両畠山の被官や国人たちに与えた影響は、大きかった。永正元年一二月、畠山尚順と義英の講和が実現したさい、大和の事は、尚順、義英両人とも関与しないと申しあわせたという(『雑事記』永正元年一二月二二日条)。あたかも大和国人たちのさきの申しあわせをうけたものであった。そして両畠山の講和の後は、共同して摂津を攻めるのではないかとの風聞が、京都にはあった(『後法興院政家記』同年一二月一六日条)。両畠山講和実現の経緯はともかく、河内が大同団結して細川政元と対抗するだろうと観測されていたのである。両畠山氏の講和実現によって、大和国人たちの講和も、翌永正二年二月に実現した。

 享徳三年(一四五四)に火をふいていらい、富田林市域にもたびたび戦禍をおよぼしながら間断なくつづけられてきた河内などの守護家畠山氏の義就流・政長流両家を旗印とする抗争は、こうしていったん終結したのであった。