嶽山の麓大焼

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だが、両畠山氏の講和は、あっけなく破れた。永正二年(一五〇五)六月、細川政元は赤沢宗益をあらためて起用して、河内・大和の制圧を目ざした。宗益は同年一一月末に、河内に入った。「両遊佐殿防戦」(『多聞院日記』永正三年正月二六日条)といわれるように、畠山義英派・同尚順派に分れている遊佐氏も、両畠山の講和のもと、協力して宗益の侵入に対抗しようとした。しかし、優勢な宗益の軍勢の前には両遊佐の軍勢は無力で、永正三年正月末には、誉田城についで高屋城が陥落し、義英、尚順はともに没落してしまった。そのあと高屋城には政元の被官が入り、畠山氏に代って、細川政元による河内の軍事支配がはじまることになった(『同』永正三年正月二六・二九日、二月九日条ほか)。永正三年には、大和も細川政元の軍事支配下に入り、国人の多くは没落した。

 ところが、ここで細川氏に激変がおきた。永正四年六月二四日、細川政元が、被官の香西元長(こうさいもとなが)らによって、暗殺されてしまったのである。折から丹後に出陣中であった赤沢宗益も自刃した。高屋城にいた政元の軍勢は六月二五日に撤退して、細川氏による河内の軍事支配は終り、六月二七日には畠山義英が河内に帰った(『同』永正四年六月二五・二七日条)。

 細川氏の激変はつづく。細川政元には実子がなく、香西元長らは養子澄之(すみゆき)を家督にたてることを名目にしていたが、さきに薬師寺元一らに擁立された澄元が、別の養子高国(たかくに)と結んで澄之を討ち、自害させてしまった。こうして澄元が細川氏の家督となり、幕府の実権を握った。政元暗殺後一カ月余のことである。

 澄元は政元の遺志をついで、大和・河内を制圧しようとした。自身出陣するほどの意気ごみであったが、赤沢宗益の養子長経(ながつね)が起用された。長経の襲来を前に、古市氏以外の大和国人は団結して対抗しようとし、河内の両畠山軍からも大和を援助しようとした。しかし永正四年一〇月、長経と、宗益いらい協力している古市氏の軍が大和国人を圧倒して奈良を制圧し、筒井氏や成身院らは高屋城に逃れた(『同』同年一〇月一八日、一一月四日条)。両畠山氏の講和と大和国人講和の申し合わせでは、河内は大和に、大和は河内に関与しないことになっていた。しかし赤沢長経の大和攻撃によって、その申し合わせは崩れた。

 かくて両畠山の講和は、「元のごとく」に破れてしまった。赤沢長経は、奈良制圧ののちはいったん上洛してすぐには河内を攻めなかったが、一二月四日、畠山義英は遊佐孫三郎らをつれて嶽山城に入った。もと義英の本拠誉田城には、畠山尚順方の遊佐順盛(のぶもり)が入り、紀伊に没落していた尚順は、隅田寺まで出陣した(『同』同年一二月四日条)。さらに摂津衆一万ばかりが河内に入って尚順方を支援し、細川高国も堺にいた。大和の尚順派も、河内の尚順陣に参陣した。そして、一二月七日には、「嶽山の麓、毎日大焼」といわれるように、義英方と尚順方とのはげしい攻防戦がつづいた(『同』同年一二月七日条)。あたかも寛正元年(一四六〇)にはじまった畠山義就と同政長の嶽山合戦の再現であった。尚順との講和を解消した義英が、いわば再出発にあたって嶽山城に拠ったのは、おそらく祖父義就と同様、誉田城よりも堅固な嶽山城に拠って、河内一国の軍事支配を目ざしたのであろう。だが再出発を期した義英の嶽山城は、あっけなく落城してしまった。

写真98 現在の嶽山山麓

 当初嶽山城を攻撃したのは、畠山尚順方の軍勢と、これに協力した細川高国方の摂津衆であったが、合戦がはじまって直後の永正四年一二月一〇日、尚順は奈良にいた細川澄元方の武将赤沢長経に馬と太刀を贈り、尚順と細川澄元との講和が実現した。澄元は赤沢長経に対し、嶽山城攻撃を指令した(『同』同年一二月一〇・一六・一七日条)。

 攻防一カ月余の永正五年一月一七日、義英方の赤沢兵庫助以下六十余人が討ち死するという激戦の末に嶽山城は落城し、義英は没落した。ところで落城にさいし、義英も殺すべきであったが、細川高国の姉婿でもある尚順の勢力が強大となり、赤沢長経が制圧している大和を奪われることをおそれた長経が澄元に讒言して、義英は脱出できたといわれる(『河原林正頼記』)。真実かどうかは知る由もないが、嶽山城から没落した義英は、細川高国派の尚順に対抗して、澄元派として河内復活を目ざすことになる。