明応政変ののち河内守護は義就流畠山基家、ついで義英で、畠山政長の子尚順は、細川政元と対立してきた。しかし細川政元が横死し、そのあと細川氏の家督となった澄元と尚順が前述のように講和したことで、畠山義英と尚順の立場は逆転し、尚順ははれて河内の守護になった。
守護・城主氏名 | 在任期間 | 守護代氏名 |
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畠山政長 | 応仁元(1467)・5―明応2(1493)・4(更迭) | 遊佐長直 |
畠山基家 (義豊) |
明応2(1493)・5―明応8(1499)・正(敗死) | 遊佐就家 |
畠山義英 | 明応8(1499)・5―永正元(1504)・正(尚順と講和) | 遊佐就盛 |
畠山尚順 | 永正4(1507)・12―永正14(1517)・6(隠居) | 遊佐順盛 |
畠山稙長 | 永正14(1517)・6―天文3(1534)・8(更迭) | 遊佐順盛 |
畠山長経 | 天文3(1534)・8―天文5(1536)・5(更迭) | 遊佐長教 |
畠山勝熙 | 天文5(1536)・5―天文7(1538)・7(更迭) | 遊佐長教 |
畠山政国 (半国) |
天文7(1538)・7―天文11(1542)・3(更迭) | 遊佐長教 |
畠山在氏 (半国) |
天文7(1538)・7―天文11(1542)・3(更迭) | 木沢長政 |
畠山稙長 | 天文11(1542)・3―天文14(1545)・3(死去) | 遊佐長教 |
畠山晴熙 | 天文14(1545)・3―天文21(1552)・9 | 遊佐長教 |
畠山高政 | 天文21(1552)・9―永禄3(1560)・10(没落) | 安見宗房 |
湯川直光 | ||
三好義賢 (実休) |
永禄3(1560)・11―永禄5(1562)・3(敗死) | |
畠山高政 | 永禄5(1562)・3―永禄5(1562)・5(没落) | 安見宗房 |
三好康長 | 永禄5(1562)・5―永禄11(1568)・9(没落) | |
畠山高政 | 永禄11(1568)・10―永禄12(1569)(追放) | 遊佐信教 |
畠山昭高 | 永禄12(1569)―天正元(1573)・6(敗死) | 遊佐信教 |
注)1.天文21年の畠山高政以降は高屋城主を示す。幕府との関係は不明で、守護かどうかはわからない。守護代も同様である。
2.今谷明『守護領国支配機構の研究』、森田恭二『河内守護畠山氏の研究』による。ともに一部補訂。
ところでともに細川政元の養子である澄元と高国とは、政元の横死後家督となったいまひとりの養子澄之を追いおとすために同盟していたにすぎず、嶽山落城の二カ月後には澄元と高国との対立が激化、高国が勝利をおさめて、澄元は京都から没落した。しかも前将軍義尹は大内義興(よしおき)の援助をうけて京都回復に成功し、永正五年(一五〇八)七月、将軍義澄を追って征夷大将軍として復活した。将軍義尹のもと、細川高国は管領となり、政権の座についた。もともと高国派である尚順の河内守護の地位は、この政変によって安定し、高国政権のつづく間、河内守護は尚順と、ついでその子稙長(たねなが)であった。
細川氏の家督を追われた澄元はただちに反撃に出、細川氏も深刻な家督争いの時代をむかえた。もとよりその争いは畠山氏と同様分裂した有力被官の抗争にほかならないが、細川氏の家督争いの動きは、もろに河内にも影響を与えた。
永正五年七月、足利義尹が征夷大将軍に再任された直後に、細川澄元の武将赤沢長経が、大和の古市澄胤とともに攻勢に出て大和を席巻し、ついで河内に入って高屋城などを攻めた。しかし尚順方の軍勢に敗れ、長経も、古市澄胤も敗死してしまった(『永正元年記』永正五年七月二三・二六日条『春日社司祐彌記』同年七月二四・二五日条)。
この時には畠山義英は動かなかったようであるが、永正八年七月、澄元派が全面的な反撃に出て将軍義尹と細川高国らを一時京都から没落させたさいには、義英も河内で攻勢に出、尚順を追って高屋城を回復した(『二条寺主家記抜萃』永正八年七月条)。澄元派の京都回復はごく短期間で終ったが、義英は永正一〇年まで河内を維持した。しかし永正一〇年八月二四日、義英軍と尚順軍は観心寺ならびに金胎寺周辺で全面衝突し、両軍あわせて数百人死亡といわれる激戦の末義英軍は敗れ、義英は和泉に逃れた(『東寺過去帳』『拾芥記』永正一〇年八月二四日条ほか)。金胎寺周辺での合戦のくわしい経過はわからないが、永正八年の河内回復直後から、嶽山・金胎寺城には義英方の軍兵がいたのではなかろうか。
こうして義英の反撃を退けたあと、永正一四年六月、尚順は家督と河内などの守護職を嫡子稙長にゆずり、紀伊広城(現和歌山県有田郡湯浅町)に引退した。
ところで永正八年の澄元派の反撃をしのいだあと、細川高国の政権は比較的安定していたが、それは足利義尹を将軍に復職させたあとも京都にとどまっていた大内義興の軍事力に負うところが大きかった。しかし長期の在京の間に大内義興と将軍義尹(永正一〇年義稙(よしたね)と改名)との間に亀裂が生じ、かつは大内氏領国をめぐる情勢がきびしくなったため、永正一五年八月、義興は帰国してしまった。これによって、澄元派はふたたび反撃の機会をつかんだ。永正一六年一一月、細川澄元と阿波(現徳島県)の有力被官三好之長(みよしゆきなが)らは四国から摂津兵庫にいたった。細川高国はみずから摂津西部まで出撃したが破れ、近江に敗走した。
この澄元派の反撃に歩調をあわせて畠山義英もふたたび河内に入り、越智家全(いえまさ)ら大和衆の協力をうけて、畠山稙長らの籠る高屋城を囲んだ。大和の筒井氏らは高屋城を赴援できず、高屋城は三月一六日落城した。落城にさいし、越智家全が畠山稙長と守護代遊佐順盛を逃してやったという。そして高屋城落城後は、河内は越智氏が進止(支配)したといわれる(『祐維記抄』永正一七年二・三月条)。永正五年正月の嶽山落城のさいとはちょうど逆に、河内支配を目ざす越智家全は、畠山義英のライバルを温存しようとしたのかもしれない。そして守護家畠山氏の権威は顕著に凋落しつつあることも、この逸話は示しているように思われる。
しかし、義英の高屋城回復は、あっけなくつぶれた。永正一七年五月、澄元派三好之長は京都に入ったものの反撃してきた高国軍に敗れ、敗死してしまったからである。これを聞いて義英は高屋城から没落し、稙長らは高屋城を回復することができた(『同』永正一七年五月条)。なお細川澄元は阿波に逃れ、六月には没した。澄元派の細川氏被官らは、やがて澄元の嫡子晴元(はるもと)をかつぐことになる。