尚順・義英再度の和睦と死

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こうして細川高国は、またまた澄元派の反撃をしのいだかにみえた。永正一七年(一五二〇)一〇月、畠山稙長がすすめていた大和での越智家全と筒井順興(じゅんこう)との再度の和睦が、成立した(『祐維記抄』永正一七年一〇月九日条)。越智・筒井両氏の和睦は、河内の安定、ひいて高国政権の安定に寄与するはずであった。しかし細川氏領国内では、高国に反抗する被官がしだいに増加しはじめ、高国政権は末期症状を呈してゆく。

 大永元年(一五二一)二月、将軍足利義稙と細川高国との対立が深まり、義稙は堺から淡路に逃れた。高国は義稙を見限り、前将軍義澄の子義晴(よしはる)を新将軍に迎えた。義稙は、三たび再挙をはかった。

 畠山義英はこれに応じ、そしてふたたび尚順と和睦した。尚順は前述のように紀伊に引退したが、紀伊の国人とあわず、淡路などに没落を余儀なくされていた。明応の政変いらい、いわば運命をともにしてきた足利義稙のよびかけに応じることで、尚順もまた再挙のきっかけをつかもうとしたのであろう。義英・尚順は天野に出撃し、高屋城の稙長を攻撃しようとした。尚順・稙長は実の親子で、あわや親子の対戦となるところであった。しかし尚順軍は稙長軍とは直接戦わなかったようで、義英軍も敗れた(『春日社司祐維記』大永元年一〇月二六日、一一月一日条)。

 畠山尚順は、大永二年七月、失意のうちに淡路で没したようである(『経尋記』大永二年八月二七日条)。大永三年四月には、前将軍足利義稙が、三度目の復活が成功しないまま、阿波で没した。同じ大永三年三月一八日付で、畠山義尭(よしたか)が、観心寺に宛てて、四通の寺領などの安堵状、および寄進状・禁制各一通を出している(「観心寺文書」三九四~三九九)。義尭は畠山上総介義宣と同一人物で、義英の子と考証されている(弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」(『国学院雑誌』八三の八))。義英から義尭へ、義就流畠山氏の家督が交替したことでこの六通の文書が出されたと考えられ、以後義英の活躍がみられないことからすると、このころ義英は没したものと思われる。

写真99 畠山義尭安堵状 大永3年3月18日(観心寺文書)

 畠山尚順と義英とは、それぞれ河内の守護になり、嶽山城や金胎寺城の攻防にもたびたび登場して、戦国時代前期後半の河内を代表する人物であった。その二人があい前後して没した時期は、あたかも河内の戦国争乱が大きく様相を変える前夜にあたっていた。もっともその変化は二人の死によってもたらされたものではなく、二人の活躍中に変化の素地はじょじょに形成されてきていたのではあるが、二人の死は、河内戦国史の前後を分ける象徴的事件である、ともいえよう。

 それはともかく、大永三年三月、守護でもない畠山義尭が観心寺に安堵状などを与えていることは、当時義尭が錦部郡方面を制圧していること、高屋城にいる守護稙長の権威が錦部郡方面には及ばなくなっていたことを意味する。大永四年九月には、義尭は日野に着陣、被官の遊佐某は金剛寺の寺坊を移建して、天野仁王山に城を構えた。これに対して同年一一月、金胎寺城衆が攻撃をしかけた。金胎寺城は、この時は義尭方でなく、稙長方であった。義尭方を攻める畠山稙長勢には、紀伊根来寺衆が義尭の背後へ出陣し、筒井氏ら大和勢も出陣、また細川高国も援軍をおくった。一二月六日、義尭軍はついに敗れ、義尭は紀伊高野山へ没落し、稙長は烏帽子形城まで出撃した(『祐維記抄』大永四年一一月一三日、一二月九日条ほか)。

 こうして畠山稙長は義尭を没落させたが、稙長の後楯であった細川高国は、いよいよ政権の末期症状を深めてゆく。大永六年一二月、細川澄賢(すみかた)・三好政長(まさなが)らが反高国勢として阿波から堺に到着、大永七年二月、高国勢は桂川の戦いで敗れ、政権としては事実上崩壊し、同年三月には細川晴元が三好元長らに擁せられ、足利義維(よしつな)とともに堺についた(『細川両家記』)。桂川の敗戦のあと近江に逃れた高国は、同年一〇月にはいったん京都を回復した。畠山稙長は一万五〇〇〇といわれる軍勢を率いて京都に出陣し、翌享禄元年(一五二八)二月まで在京した(『厳助往年記』大永七年一一月二七日、大永八年二月五日条)。いっぽう高国を攻める三好元長勢にも畠山義尭が動員されて、京都に出陣している(『細川両家記』)。

 享禄元年五月、細川高国はまたまた京都を没落し、以後京都を回復することなく享禄四年六月摂津尼崎で自刃した。ただし高国が没落すると、ただちに細川晴元が政権の座についたわけではない。次項で述べるように、晴元の政権への道は、河内をもまきこんだ複雑な経過をたどることになる。

 享禄元年一〇月、柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高屋城を囲んだ。柳本賢治はもと細川高国の有力被官であったが、大永六年反高国に転じ、しかも誰の被官でもない、独自の勢力を築こうとした。享禄元年閏九月、柳本賢治は大和に打ち入って「一国を切取り」(『二水記』享禄元年閏九月二二日条)、ついで高屋城を攻めたのである。しかし高屋城はよく守って落ちなかったが、攻防約一カ月ののち、ついに和睦し、畠山稙長は高屋城を明け渡して、金胎寺城に引退した(『厳助往年記』享禄元年一一月一一日条)。金胎寺城は、こうして現職守護の居城となった。形式上は、金胎寺城が守護所となったといえる。ただし稙長にはもはや往年の守護の権威はなかった。守護と守護代の主従が逆転する時代が、ついそこまでせまっていたのである。