新しい情勢の展開

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享禄四年(一五三一)八月、畠山義尭と木沢長政との対立が激化し、義尭は飯盛(いいもり)城(現四条畷市)に拠る長政を攻撃した。木沢長政は畠山義尭の守護代格にあたる有力被官で、細川高国政権の末期には、反高国=細川晴元派に属した義尭の武将として、京都などでの合戦に参加してきた。しかし木沢長政は、これまでの守護代、あるいは守護代格の有力被官とはちがって、守護から完全に自立した勢力となることをねらっていた。そして細川晴元を支持してきた三好氏が元長と政長とに分裂したことから、木沢長政はついに自立の機会をつかんだ。畠山義尭は、細川晴元と対立をしはじめた三好元長派であるのに対して、当時堺にいた細川晴元は、木沢長政の実力を見込んで、長政を支持したのである。

 細川氏の分裂抗争を記した軍記物で史料としても比較的信頼度が高い『細川両家記』が「木沢左京亮(長政)我主の総州(畠山義尭)を背(そむき)申ければ」と記すように、こうして守護代格の木沢長政が、主君に背いて独立の勢力として行動をはじめたのである。

 新しい情勢の展開は、守護代が守護に背いたことばかりではなかった。河内をはじめ畿内の一向宗(浄土真宗)門徒(信者)が、宗主証如(しょうにょ)の総指揮のもとに、畿内の戦国争乱に積極的に介入しはじめたのである。河内地方や富田林地域における一向宗の普及については次節であらためて述べるが、応仁の乱後河内地方にも本願寺派の一向宗は急速に普及し、各地に道場を設け、門徒の組織も強化されていた。その一向宗門徒が一向一揆を結成して、武将たちの合戦の場にも参加しはじめたのである。飯盛城の攻防戦は、一向一揆が戦国争乱に積極的に介入する最初の場となった。

 享禄五年(天文元年)五月、畠山義尭・三好元長の連合軍はあらためて飯盛城に木沢長政を攻撃した。長政は細川晴元に援を求めたので、晴元は本願寺証如に助力を求めた。そこで証如はみずから摂津へ下り、近国の門徒に触れて一〇万といわれる門徒を招集し、飯盛城の後巻(うしろまき)(城の攻撃軍をさらにその背後から攻撃すること)として布陣した。その結果畠山義尭らは大敗し、誉田城も陥落した。そして義尭は、石川道場に忍んでいたが、六月一五日(一七日説もある)切腹させられてしまった(『細川両家記』ほか)。錦部郡など南河内で事実上の守護となっていたこともある義尭は、木沢長政の造反によって、河内守護としてははじめての、悲惨な最期をとげたのである。なお石川道場の場所を明示する史料はないが、後に述べるように、富田林市域にあったと考えてよさそうである。

写真100 飯盛城跡 四條畷市

 木沢長政と一向一揆は、ついで堺に三好元長を攻め敗死させた。事態は長政の予想通りに展開するかにみえた。だがここで一転して一向一揆と細川晴元が対立をはじめ、天文二年(一五三三)正月には晴元は敗れて堺から淡路に逃れた。この間天文元年八月には京都の法華宗徒が近江の六角氏の兵とともに一向一揆の中心山科本願寺(現京都市山科区)を焼き討ちし、法華一揆は京都の市政も掌握、摂津各地で、法華一揆・一向一揆、それに木沢長政や摂津国人らが入り乱れて戦う混乱がつづくことになった。

 細川高国政権崩壊ののち、細川晴元は、堺において足利義維を擁し、事実上「堺幕府」として幕府の権限を行使しはじめており、木沢長政は畠山氏に代って重用されるはずであった。しかしこの混乱の中で「堺幕府」は霧散してしまった。

 いっぽう守護代の抬頭は、現任守護の畠山稙長側にもおきた。稙長は、享禄元年柳本賢治に高屋城をあけ渡し金胎寺城に引き退いたことは前項で述べた。その後の金胎寺城での動静についてはわからないが、柳本賢治が河内を去って後、高屋城を回復したものと思われる。畠山義尭が敗死して半年後の天文元年一二月、稙長は金剛寺に対して安堵状を出している(「金剛寺文書」三二〇)。同じころ観心寺は、後述するように木沢長政に寺領の安堵や禁制を求めているが、もともと義就流畠山氏の勢望が高い南河内にも、稙長の勢威回復のきざしがあったものであろう。

 その稙長は、天文三年八月までに家督を追われて紀伊に亡命し、政長流畠山氏の家督は、稙長の弟長経(ながつね)に、将軍足利義晴から安堵されている(『御内書引付』)。稙長追放のくわしい経緯はわからないが、稙長は木沢長政と対決する一向一揆と結んでおり、守護代遊佐長教(ながのり)を中心とする高屋城衆の、木沢長政との妥協的な対応であった、とみられている(石田晴男「守護畠山氏と紀州『惣国一揆』(戦国大名論集『本願寺一向一揆の研究』所収)ほか)。政長流畠山氏にあっても、長経以後の家督は、守護代ら実力者の傀儡(かいらい)にすぎないものとなったのである。